【バックナンバー公開】東北食べる通信|岩手県大槌町・兼澤幸男さんの物語(2/3)

食べる通信で過去に特集した記事をご紹介する「バックナンバーアーカイブ」。

東北食べる通信が生まれるきっかけとなった東日本大震災から、もうすぐ10年を迎えます。それまでの日常を奪われた東北の生産者さんたちは、この10年間で数多くの困難と戦いながら、新たな挑戦を始めています。

佐々木友彦さんの物語に続く第2回目は、『東北食べる通信 2020年9月号』で特集した岩手県大槌町(おおつち)の猟師、兼澤幸男さんの物語をご紹介いたします。

「ジビエ」にはどのようなイメージがあるでしょうか。独特の獣臭さがあり、それが好きな方もいれば、苦手だという方もいるかもしれません。しかし、兼澤さんが捕獲・解体方法に徹底的にこだわった、臭みがなく柔らかい鹿肉には、そのイメージを覆されます。

この鹿肉を私たちが味わえるようになったのはつい最近のこと。原発事故の影響で、捕獲した鹿は焼却処分するしかありませんでした。兼澤さんは「奪った命を価値あるものにしたい」という一心で、規制解除という大きな壁に挑みました。

 

その1はこちら

その3はこちら


食の向こうに、人がいる。

東北食べる通信 2020年9月号


 

鹿肉の人

岩手県大槌町 兼澤幸男さん

 

 

津波

2011年3月11日。兼澤さんが乗った船は茨城にいた。船は5㎞ほど沖までに逃げて津波をかわすことができたが、港はパニックで入港できなかった。東北方面は漂流物がひどくて進めなかったため、船は南下して福岡に上陸した。兼澤さんは青森行きの飛行機に飛び乗り、友人が用意してくれた車を乗り継いで大槌へ向かった。どうやって帰ったのか記憶は曖昧だが、町に到着したのは震災の5日後だった。峠を越えると大槌湾が見えた。「なんもねぇ……」と呆然とした。大槌町を襲った津波は20mを超え、全家屋の7割が流出・崩壊した。妻と娘はすでに隣町の妻の実家に避難していたが、親戚から「お母さんは流されたと思う」と聞かされた。地震の後、母は海の近くに住む祖母を迎えに行った。しかし、祖母はお隣さんに連れられて逃げていた。祖母の家は跡形もなく消えていたが、どこかに母がいやしないかと周囲を歩き回った。母の車が見つかったが、中身は空っぽだった。 

それから1日経ち、2日経ち、1週間経ち……いつしか町中より遺体安置所を探す時間が増えていた。大槌の人が別の町の遺体安置所で見つかったという噂を聞き、車を飛ばして方々の安置所を回った。遺体には毛布が被せてあった。「50代女性」と書かれている毛布を、一体一体めくって顔を見た。「違う、違う、違う……」。何百体、何千体という遺体と顔を合わせた。その時の匂いが今でも鼻から取れないと言う。安置所には「こんな所にいたの!」と泣き崩れる人の声が響いた。「俺、お母さんと面と向かったら耐えられない。俺を悲しませたくないから出てこねぇんだな……」。母がどこか遠いところに行っているような感覚で、死を受け入れることはできなかった。アルバイトをしながら安置所を巡る生活は続き、気がつけば1年が経っていた。親戚に説得されて嫌々ながらにお葬式をあげた。お経が始まると涙が止まらなくなった。「死んだんだ、もう帰ってこないんだ」と号泣した。お墓には入れる骨がなく、母が使っていたエプロンを入れた。祖母は彼の顔を見ると、「申し訳ない。早く死にたい」と言って泣いた。その度に「お母さんの分も長生きしてちょうだいよ」と励ました。3年前、90歳で亡くなるまで自分を責めていた。

 

 

獣害

震災後、兼澤さんは地元の会社に就職してガス工事の仕事をしていた。仮設住宅や復興住宅の建設ラッシュで多忙な日々が続いていた。2014年、生まれて初めて大槌でコメを買った。父の実家が農家だったので、彼にとってコメはもらうものだったが、この年は大凶作となったのだ。田んぼを見に行くと稲穂がなぎ倒されていた。鹿の仕業だった。

温暖化による積雪量の減少や狩猟者の高齢化によって、全国的に鹿の数は右肩上がりとなっていた。そこに原発事故が拍車をかけた。野生鳥獣の放射能汚染は猟師から狩猟する意欲を奪ってしまった。現在、岩手県における鹿による農作物被害は年間約2億円にのぼる。大槌町でも被害は深刻で、獣害をきっかけに農業を辞める人が後を絶たなかった。そんな状況を知り、兼澤さんは猟師になることを決意した。

狩猟免許を取得して1年が経ち、彼は町の「鳥獣被害対策実施隊」に任命された。増えすぎた害獣の対策として、市町村が猟師に駆除を委託するというもので、大槌町の場合は鹿1頭あたり7000円の報償金が出る。兼澤さんは同時期に猟師になった幼馴染みと駆除を始めた。二人は4ヶ月で50〜60頭も獲ったが、町が掲げる250頭という目標には遠く及ばなかった。1回の猟で5頭も獲ることもあったが、獲った鹿は出荷することができないので、行き先は棄物処理場だった。片道40分かけて隣町の廃棄物処理場に運び、1頭あたり100円の手数料を払って棄てる。それは猟師仲間と一日かけて山に張り込み、獲った獣は余すところなく食べるという、猟の本来あるべき姿とは違っていた。「駆除はバーン、チャリーン、ポイっていう感覚。“殺戮”を繰り返していると思った」。ちょうどそのころ、全国的にジビエブームに火がつき始めていた。また、国も駆除で獲った獣を食肉として流通させる動きを推奨していた。「日本中でそういう動きになるなら、岩手県で規制が解除されるまで獲らない方がいいんじゃないか……」と、葛藤した。

 

奪った命を価値あるものに

そんなある日の夕方、兼澤さんは山で鹿がやってくるのを待っていた。しばらくすると林の中から鹿の群れが現れた。ほふく前進で群れに近づき、鉄砲を構えた。すると反対側から別の群れがやってきた。鹿たちはしばらく互いを見合ったあと、それぞれの群れから一頭ずつ鹿が出てきて鼻をくっつけて匂いを嗅ぎあったり、体を軽くぶつけ合ったりしてじゃれ始めた。「何これ!鹿ってバカだと思ってたのに……」。彼らには彼らなりのコミュニティや仲間意識がある。その光景を見た瞬間、急に撃つのがかわいそうになった。悩みに悩んで、兼澤さんは引き金を引いた。「簡単に命を奪っているけど、よくない。奪った命を価値あるものにしたい」。葛藤は確信に変わり、彼は鉄砲を置いた。

時を同じくして、同じ問題に目をつけた男がいた。復興支援のために大槌町に移住した藤原朋さんだ。彼は、猟師の妻でジビエ料理の達人である地元のおばあさんから「昔は鹿肉をみんな食べていたのに、棄てるのはもったいない」という話を聞き、役場に相談に行った。「ジビエを事業にできないでしょうか?」。すると、藤原さんは予想外の答えを聞くことになる。「1週間前に同じことを聞きに来た若者がいますよ」。……その若者こそが、兼澤さんだった。かくして藤原さんの呼びかけで、兼澤さんをはじめとするジビエ事業に興味のある町民や役場職員による、ジビエ勉強会が始まった。その中には、藤原さんから相談を受けた役場職員の佐藤明さんの姿もあった。


その3につづく


 


東北食べる通信

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