【バックナンバー公開】東北食べる通信|岩手県大槌町・兼澤幸男さんの物語(1/3)

食べる通信で過去に特集した記事をご紹介する「バックナンバーアーカイブ」。

東北食べる通信が生まれるきっかけとなった東日本大震災から、もうすぐ10年を迎えます。それまでの日常を奪われた東北の生産者さんたちは、この10年間で数多くの困難と戦いながら、新たな挑戦を始めています。

佐々木友彦さんの物語に続く第2回目は、『東北食べる通信 2020年9月号』で特集した岩手県大槌町(おおつち)の猟師、兼澤幸男さんの物語をご紹介いたします。

「ジビエ」にはどのようなイメージがあるでしょうか。独特の獣臭さがあり、それが好きな方もいれば、苦手だという方もいるかもしれません。しかし、兼澤さんが捕獲・解体方法に徹底的にこだわった、臭みがなく柔らかい鹿肉には、そのイメージを覆されます。

この鹿肉を私たちが味わえるようになったのはつい最近のこと。原発事故の影響で、捕獲した鹿は焼却処分するしかありませんでした。兼澤さんは「奪った命を価値あるものにしたい」という一心で、規制解除という大きな壁に挑みました。

 

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食の向こうに、人がいる。

東北食べる通信 2020年9月号


 

鹿肉の人

岩手県大槌町 兼澤幸男さん

 

 

ゆっくりとサイドブレーキを引く。両手でそっと車のドアを開け、閉める。普段はワハハ、と大きな声でよく笑う大男は、人が変わったように静まり返っていた。猟の始まりだ。

 

忍び猟

岩手県大槌町と、隣接する遠野市との境界に位置する新山(しんやま)が、兼澤幸男(取材当時35)さんの猟場だ。新山には山のところどころに町が管理する放牧場があり、栄養豊富な牧草を求めて野生の鹿が入り込んでくる。辺りは霧に包まれて真っ白だ。夏の三陸沿岸に特有の現象「やませ」の影響である。兼澤さんは驚くほど音を立てずに放牧場を進んでいく。目を凝らすと、ズボンが擦れ合う音がしないよう、わずかに脚を開いて歩いていることが分かる。靴の側面が草に当たる音や、立ち上がった柔らかい草を踏み潰す音を立てないよう、一歩ずつ足の置き場を選んでいる。木立を指差し、振り返って口元に指を立てて静かにするようにと指示を出すと、ゆっくりと腰を下ろす。リーリーという虫の声。ギギギっと鳴く鳥の声。木の葉に溜まった水がポタリと滴る音しかしない。兼澤さんはすっと腰を上げて数十センチほど前に進んで鉄砲を構えたが、やがて銃口を下ろすと再び岩のように固まった。木立の向こう側にいる鹿との睨めっこは10分以上続いている。腰を上げずにわずかに体の向きを変え、もう一度鉄砲を構えたが、また外してサッと立ち上がった。「手前のでかい雄が警戒してる。群れの中にいる若い個体を射程に入れたいけど、やませで見えなかった」と、諦めてその場を離れた。狙うのは、臭みがなく肉が柔らかい3歳までの雄と4歳までの雌と決めている。

頂上付近のポイントで車を降りる。忍び足で進んでいき、急に立ち止まって姿勢を低くした。100mほど先に、霧の中で草を食む鹿の姿が見えた。私には2頭の影が辛うじて見えるだけだが、彼には7頭の群れが見えていた。奥の小さな鹿を狙う。カチャ、と鉄砲に弾を込めてスコープを覗き込む。パーンという爆発音が耳をつんざく。霧で隠れていた20頭ほどの鹿が蜘蛛の子を散らすように逃げていった。息を切らして倒れた鹿に駆け寄り、鎖骨のあたりにぐぐっとナイフを入れる。ナイフを引き出すと同時に勢いよく血が溢れる。流れ出した血は、草と土にたちまち染み込んでいく。その光景は想像していたよりずっと穏やかだった。ナイフを腰に仕舞い、さっと手を合わせる。弾は耳の下に当たり、後頭部から抜けていた。真っ黒な目は開かれたままで、口は半開きになっている。唇と歯には緑色の液体が着いていて、撃たれる直前まで草を食んでいたことが窺える。「頭を狙うっていうことは、即死か外れるかということ。外れれば何不自由なく元気に過ごすし、当たれば即死するからストレスを与えない」。今日の獲物をトラックの荷台に積み込み、たっぷりの細かい氷で包んで冷やす。「じゃあ帰るよ。帰りは舗装されてる道で帰るから安心して。ワハハ」。兼澤さんは元の賑やかな男に戻っていた。滑るように山を下りていき、到着したのは真新しいプレハブの小屋だった。

東日本大震災に伴う福島第一原発の爆発事故の影響で、岩手県を含む10県は未だに野生鳥獣の出荷が規制されている。山を除染することはできないからだ。しかし、原発事故から9年が経った今年の春、兼澤さんは岩手県第一号となる出荷規制の一部解除を成し遂げた。現在、彼が建てたこの処理場で処理された鹿肉だけは、放射性物質検査を行った上で出荷することが認められている。処理場のすぐ横を、昨年開通したばかりの三陸鉄道が走っている。処理場の背後には、大槌湾をぐるりと囲む巨大な防潮堤の工事が続いていた。

 

海と山で育つ

兼澤さんは大槌町で生まれた。父の実家は農業を、母の実家は漁業を営んでいた。兼澤少年は山や海を駆け回り、毎日のように祖父母の手伝いをして過ごした。特に漁師の仕事が好きで、真夜中に祖父が起き出すのを見るや、布団を飛び出して漁についていった。寝過ごすと置いていかれるので、いつも寝たフリをしていた。漁師に憧れたが、祖父からは「漁師は安定しないからやめろ。船乗りになれ」と言われて育った。幼いころにはすでに狩りの才能は開花しており、モリで魚を突く名人だった。大人たちからは「センスあるな!」と驚かれた。父は厳しい人で、よくゲンコツが飛んできた。「俺は悪ガキだったから、親父にはしょっちゅうぶん殴られてた。そんなときかばってくれたのが母親だった」。母はパートを2個も3個も掛け持ちし、よく働く人だった。

 

船乗り

高校卒業後は海運会社に就職し、祖父の言葉通り船乗りになった。日本中を巡航しながらセメントの原料を運ぶタンカーで、半年船に乗って1ヶ月間休暇があるという生活だった。船での生活は寂しく、しょっちゅう母親に電話をかけた。「いつでも帰ってこー」という優しい母の言葉が心の支えられて頑張れた。各地の港に入る度に、「俺、やっぱり大槌が好きだな。大槌の海が一番綺麗だな」と故郷への思いを募らせていった。休暇で実家に戻ると、新婚の妻とショッピングに行くより母とスーパーに行く方が好きで、妻には嫉妬されるほどだった。

2010年10月、父の最期が近づいていると知らされて、8年勤めた会社を辞めて帰郷した。帰ってきて1ヶ月もたたないうちに父は他界した。喪失感で打ちのめされている母を心配し、兼澤さんはしばらく実家に留まっていたが、その胸中を察した母が「幸男くん、私もう大丈夫だから。若いうちにいっぱい稼いでおいで」と送り出してくれた。別の海運会社に就職が決まり、12月に大槌を離れた。3ヶ月後には休暇となり、実家に帰る予定だった。「お母さん、もうちょっとで帰るよ〜」と電話で話したのが最後。母との再会は叶わなかった。


その2につづく


 


東北食べる通信

月刊
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東北

編集部が東北中を駆け回って惚れ込んだ、農家さん・漁師さんの物語をお届けします。茎付きのサトイモ、殻付きの牡蠣…一緒に届ける食べ物もなるべく自然に近い状態にしています。ぜひ家庭で畑や海の香りを楽しんでください。

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