【バックナンバー公開】東北食べる通信|岩手県山田町・佐々木友彦さんの物語(1/3)

食べる通信で過去に特集した記事をご紹介する「バックナンバーアーカイブ」。

東北食べる通信が生まれるきっかけとなった東日本大震災から、もうすぐ10年を迎えます。それまでの日常を奪われた東北の生産者さんたちは、この10年間で数多くの困難と戦いながら、新たな挑戦を始めています。今回はその一人である、『東北食べる通信 2018年11月号』で特集した岩手県山田町の漁師、佐々木友彦さんの物語をご紹介いたします。

「赤皿貝」という貝をご存知でしょうか。その名の通り、お皿のように薄い赤い貝です。足が早いためなかなか市場に出回ることのない赤皿貝ですが、鮮度を保ったまま私たちの食卓に届くよう、試行錯誤の末に「ある技」を生み出したのが佐々木さんです。

山田町の浜と、そこで採れる赤皿貝に熱く向き合う佐々木さんのストーリーを、ぜひご覧ください。

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世なおしは、食なおし。

東北食べる通信 2018年11月号


 

岩手県山田町の佐々木友彦さんが採った
赤皿貝(あかざらがい)

 

鏡のような水面に木製の筏が浮かんでいる。エンジンの回転数が落ち、右に旋回し、フワリと筏に横付けする。底まで見えるのではないかというほど透き通った海。エンジンを切るとウミネコの鳴き声しか聞こえない。

素早く船と筏をロープでくくりつけると、四つん這いになって筏に乗り移る。筏には無数のロープが吊り下げられている。このロープを慎重に解いてクレーンで引き上げると、ゴツゴツした物体が水面から上がってきた。養殖牡蠣の塊だと言われなければ何だかわからない。途中重みに耐えきれず、いくつかの塊は海に落ちていった。ヒラヒラとたなびく植物や、貝を覆う白やオレンジ色の生物、それに小さいエビやカニがもぞもぞと動いている。ドンドンドン、と鉈で牡蠣を叩いてロープから外していく。その牡蠣に付着した赤皿貝を見つけると、ザクッと鉈で切り離して海水を張った小さなバケツの中に放り込む。数分前まで得体の知れない塊だったものが、佐々木友彦さん(取材当時43)の手によって牡蠣・赤皿貝・ムール貝とそれ以外の付着生物に分別されていく。

 

壮絶人生の幕開け 

友彦さんは丘での穏やかな雰囲気に反し、舵を握ると眉根を寄せて険しい表情になる。こんな表情で向き合わねばならぬほど、海はずっと彼に厳しかった。

友彦さんは代々漁師の家に生まれた。幼少期は貧しく、カップラーメンと菓子パンで育った。父は普段は温厚な人だったが酒を飲むと荒れた。母は癇癪持ちだった。家は落ち着ける場所ではなく、いつも腹を空かせていたので勉強にも集中できなかった。友彦さんが中学生の頃、叔父の死をきっかけに父は酒の飲み方が激しくなった。一升瓶を半分ぐらい一気に飲んでしまうようになり、酔えば親戚や世の中への恨み辛みが止まらなかった。親戚が集まると、金返せ、金よこせという会話が漏れ聞こえてきた。「おめの親父に金貸した。親父の代わりにおめが返せ」と友彦さんが直接言われることもあった。「この家の問題を解決するには何千万という金が必要だ。おらはおっきくなんねぇといけね」と幼いながらに腹をくくった。

 

山田の海は恥ずかしい

高校卒業後上京して1年半、スーパーや運送会社、卸売市場などで働いた。そこで横浜の海を見て衝撃を受ける。「タバコのポイ捨ても立ちションもない。山田に戻ったらタバコの吸殻だらけだった」。帰郷後、漁師が海を守らなければいけないと、ひとりゴミ拾いを始める。父からは「変わったことをやるな」と怒られ、先輩からは「おめぇ一人が拾ったってどうにもなんねぇ。おなごでも探せや」と揶揄された。争いを嫌う彼はただじっと我慢し、みんなが家に帰った後、隠れるようにゴミ拾いを続けた。

20代、岩手や宮城、三重、そしてオーストラリアといった牡蠣養殖の先進地に積極的に視察に行く。牡蠣の質の高さに驚き、そこで見た養殖方法を取り入れていった。昔のやり方に固執する父とは幾度となく衝突したが、友彦さんは一歩も譲らなかった。母には「おめの牡蠣は親父を超えた」と褒められるようになる。そして若干29歳にして、漁協の理事という大役にも挑戦、73歳の父に代わって事業主となる。

 

翻弄される漁師たち

そんなある日、凶報が飛び込んできた。父の弟である勝正(かずまさ)さんが自宅の倉庫で首を吊ったという知らせだった。幸い発見が早く、九死に一生を得た。ひとりの漁師がそこまで追い詰められた背景には、山田町の漁師が翻弄されてきた長い歴史があった。

山田湾は深い水深と狭い湾口、周囲に連なる山々のおかげで、波が穏やかで、江戸時代から天然の良港として重宝されてきた。今のように港の整備が進む前は、船が停泊できる港は限られていたため、必然的に一つひとつの港が多くの漁師を抱えるようになった。明治時代に動力船が現れると、すぐに近海の魚を獲り切ってしまう。そこで漁師たちは、魚を求めてベーリング海やオホーツク海、太平洋へと進出した。しかしその後、第二次世界大戦に敗北し、漁師たちは港に押し戻された。1952年、GHQによる占領の終焉とともに遠洋漁業が再開。さらに、戦後の食糧不足を賄うため、捕鯨が活発に行われるようになり、山田湾にも大型商業捕鯨の基地ができた。こうして再び日本の漁師たちは世界の海へと乗り出していった。しかし、1977年にアメリカが排他的経済水域を200海里に拡大し、ソ連もそれに続いた。日本の漁師の乱獲によって自国の漁業が被害を受けていると判断したためだ。これにより日本の漁船が自由に操業できる海域が激減し、遠洋漁業は急速に衰退した。さらに、1982年には商業捕鯨の禁止が国際的に採択された。こうして山田湾を飛び出した大勢の漁師たちがこの小さな湾に押し込められることになった。当然、海の資源に対して漁師が多すぎて、一軒一軒の生活は困窮した。

 

4千万円の借金

その上、山田町では、1947年に街で大火があり魚市場が焼失。これにより佐々木家の漁獲高の一部は未収金として消えてしまった。1960年にはチリ津波が襲来。佐々木家は購入したばかりの定置網を失い、億単位の借金を背負った。祖父と父を含む4人の息子たちは一家総出で船に乗り、スルメイカやサケ、シラス、毛ガニなどを獲りながら、ホタテと牡蠣の養殖にも取り組み、少しずつ借金を返済していった。

しかし、友彦さんが中学生の頃、伯父の死によって佐々木家には約4,000万もの借金が残っていることが明るみに出た。彼は弟たちを心配させまいと借金の存在をひた隠しにしていたのだ。この時、最も多く漁船を所有していた父の弟・勝正さんが借金を一手に引き受け、他の兄妹達が連帯保証人となった。懸命の返済虚しく、船の故障や、バブル時代に付いたべらぼうな利子、魚価や漁獲量の低迷に苦しめられた。最後は佐々木家の一族が汗水垂らして手に入れた土地まで手放すことになった。自分が若い時に苦労して手に入れた土地を売ることを、父は最後まで固辞したが、何年もかけて友彦さんが説き伏せた。勝正さんは過酷な遠洋漁業の船で船長まで勤め上げた屈強な人だったが、借金を完済した直後、積年の苦難の末にタガが外れ、自殺未遂に追い込まれたのだった。


その2につづく


 


東北食べる通信

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東北

編集部が東北中を駆け回って惚れ込んだ、農家さん・漁師さんの物語をお届けします。茎付きのサトイモ、殻付きの牡蠣…一緒に届ける食べ物もなるべく自然に近い状態にしています。ぜひ家庭で畑や海の香りを楽しんでください。

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