【バックナンバー公開】東北食べる通信|福島県相馬市・菊地将兵さんの物語(2/3)

食べる通信で過去に特集した記事をご紹介する「バックナンバーアーカイブ」。

東北食べる通信が生まれるきっかけとなった東日本大震災から、もうすぐ10年を迎えます。それまでの日常を奪われた東北の生産者さんたちは、この10年間で数多くの困難と戦いながら、新たな挑戦を始めています。

東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の爆発事故により、福島県の生産者は激しい風評被害に悩まされることになりました。原発から30km以上離れた相馬市では、検査の結果が基準値未満でも地元の野菜が売れないという状態が続きました。
その最中にふるさと・相馬市に帰郷し、農家になった菊地将兵(しょうへい)さん。「この土地だからこそ、日本で一番安全な食べものを作りたい」と有機栽培で野菜を育て、平飼いで養鶏をしています。
 
生産者が“相馬”と胸を張って言えなかった当時、菊地さんはその卵に「相馬ミルキーエッグ」と名付けました。地域の恵みによって育てられているこの鶏たち、一体何を食べていると思いますか?

彼の農業は、彼の歴史とあるべき姿そのものです。見ているこちらが自分を振り返って恥ずかしくなるほど、真っ直ぐで正しい。そんな生き方にぜひ触れてください。

 

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世なおしは、食なおし。

東北食べる通信 2017年11月号


 

耕して、守る

 

 

相馬ミルキーエッグ誕生

専業野菜農家だった菊地が養鶏に踏み出したのは今から2年前。きっかけは、1歳になろうとしていた長男、松陰(取材当時4)の食の安全だった。食卓にあがる野菜には事足りない暮らしだったが、ひとつ気になっていることがあった。それが卵だった。スーパーで売っている市販のものは、抗生物質やワクチンを投与され、添加物入りの餌、遺伝子組み換えの餌で育てられた鶏の卵であり、それを息子に食べさせることが怖いと感じていた。妻の陽子(取材当時32)に相談し、ふたりで出した答えが「自分たちで鶏を飼って、安全な卵をつくろう」だった。そう決めて始めたことだからこそ、菊地は徹底して自分で集めた自然由来の餌しか与えないのだ。

初めてできた卵を松陰が何の味付けもなくご飯にかけて食べたとき、「うめー、うめー」とたどたどしい言葉を使いながら平らげたことを菊地は今でも鮮明に覚えている。一般的な養鶏農家は購入した餌の袋を開けて与えるだけなのでそれほど時間はかからないが、菊地は餌集めからやるので一日8時間かかる。一日の作業の大半が餌やりに費やされると言っても過言ではない。これだけ手間ひまをかけているのだから安売りするつもりは毛頭なかった。「相馬ミルキーエッグ」と名付け、1パック10個で770円という値段をつけた。「そんな高い卵を誰が買うんだ」と農家の親族から反対されたが、菊地の卵の評判は口コミで広がり、定期購入する固定客が地域内外に増えていった。現在、500羽の鶏を飼育し、地域内の定期配達を9件、地域外の定期配送を15件抱えている。来年には700〜800羽に増やそうと準備しているが、地域の循環に支えられる養鶏の規模としてはそこが限界だと見定めている。

最近、菊地は相馬ミルキーエッグを830円に値上げした。「オーガニックは金持ちしか食えない。これが今ぶつかっている壁だ」と、本音を吐露する菊地。その壁を乗り越える一歩として、値上げに踏み切ったのだった。「お金がない貧困層がろくでもないものを食べて病気になっても病院に行けずにさらに悪化させる。その悪循環をなんとかしたい」と、1パック購入されるごとに30円を母子家庭、父子家庭、養護施設の子どもたちにオーガニックの食べものを届けるのに使うと宣言。値上げすることに不安もあったが、菊地の思いに共感した消費者から注文が入り、逆に値上げ前より客は増えた。曲がったことは大嫌い。妥協は一切許さない。この菊地の真っ直ぐな性分は、一体どのように育まれたのだろうか。

 

吉田松陰ショック!

菊地には父の記憶がない。22歳で菊地を産んだ母はほどなく離婚し、幼稚園児だった菊地は「お婆ちゃんとお母さんとどっちを選ぶか」と迫られた。「お母さん」と答えたが、母は働いていたし、当時は出戻りに厳しい時代だったので、女手一つでは育てられないという結論になり、菊地は母の実家に引き取られた。そして、農業を営む祖父母、曾祖父母の4人に育てられた。「婆ちゃんは厳しかったけど、優しかった。家出して帰ってくると、ビンタされてすぐ抱きしめられた。4人ともぼくとは価値観が違う時代を生きてきた人たち。日常的に山菜も採りに行くし、自分でなんでもつくっちゃうし、何かあればすぐもったいないと怒る世代。ぼくらの親の世代は、売ってるんだから買えばいいじゃん、じゃないですか。こういう環境で育ったのが大きかったと思う」と、菊地は冷静に幼少期を振り返る。

祖父母から、自分の居場所は自分でつくれと何度も言って聞かされた影響から、16歳で高校を辞めるときには「自分の道は自分でつくる」と決意していた。17歳のとき、坂本竜馬を描いた漫画『お〜い!竜馬』を夢中で読み、自分と同じ世代の若者たちが幕末に繰り広げた物語に感動して泣いた。特に、登場人物のひとり、吉田松陰に衝撃を受けた。国の行く末を案じて激烈に行動し、29歳で死んだ。「すごいなと。自分は何してるんだって思った」。以来、吉田松陰を尊敬している。だから、息子に松陰という名前をつけた。今も漫画が並ぶ家の本棚には、一番取りやすいところに『お〜い!竜馬』を置いてある。妻に漫画の断捨離を迫られたときも、これだけはダメだと死守した。

元々、漫画が好きだったこともあり、漫画家を目指して17歳で仙台の漫画専門学校に入った。漫画を描くのが上手な同級生がたくさんいたが、作品を読ませてもらうと薄っぺらに感じ、つまらなかった。大事なのは、漫画という手段を通じて、何を伝えたいのかだと思った。専門学校でスキルを学んで漫画の腕をあげても、菊地には当時、明確に伝えたいものがなかった。専門学校は2年で辞めて、派遣社員などを経て、なんとなく上京した。たまたま目にした万引きGメンの仕事に興味を持った。「なんで万引きするんだろうって。食えなくて万引きしてるなら、それはなんでだろうって知りたくなったんですよね」。

 

都会の貧困に向き合う

実際に万引きGメンの仕事を始めてみると、捕まえた人の多くが貧困のあまり食べものを盗んだ人たちであることがわかった。菊地は捕まえる度に、万引きの理由を尋ねた。好き好んで万引きをしているわけじゃない。止むに止まれぬ理由で貧困に陥り、そこから抜け出す術もなく、生きるために食べものを盗む人々がいることを知った。

菊地は万引きGメンと平行して、池袋駅で炊き出しなどホームレス支援にも参加するようになった。さらには自宅がある菊名駅周辺で、個人で夜回りも始めた。自分でつくったオニギリを入れたバックを背負い、駅で寝ている人に炊き出し情報が書かれたチラシと一緒に配った。

そんな暮らしをしばらく続けていたが、支援する側の自分のお金がどんどんなくなっていった。人助けをするには、オニギリのふりかけを買うにも、電車で移動するにも、お金がかかる。自分の力のなさを思い知らされた。綺麗事を言っても続けられなければ意味がない。そう思い悩んでいた矢先、人生の転機が訪れることに。ある日、ホームレスの炊き出し支援を手伝っていたら、岩手県の農家が現れて「これ使ってくれ」と米を何袋も置いていった。ひとりで一気にたくさんの困っている人を助けられる農家はすごいなと思った。菊地は、探して求めていた答えを手に入れたような気がした。農家になろうと決意した。

岩手の農家が答えに気づかせてくれたけれど、その答えは自分の足元にあったものだった。祖父母に育てられた菊地は、中学生になってから母と暮らせるようになったものの、狭いアパートでの母子家庭の生活は困窮を極めた。それでも、不思議と不幸だとは思わなかった。それは近所に暮らす祖父母が米や野菜、惣菜をいつも届けてくれ、とにかく腹いっぱい食べることができたからだったんじゃないかと、今になって思う。三食ちゃんと食べることができるのがどれだけ幸せなのか。そして、その幸せを生み出すことができる農家はどれだけ素晴らしい仕事なのか。祖父母を始めとする近隣の農家は東日本大震災後、食べものがない住民たちに野菜を配っていたという。まさに自分を育ててくれた祖父母こそが答えだったのだ。


その3につづく


 


東北食べる通信

月刊
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東北

編集部が東北中を駆け回って惚れ込んだ、農家さん・漁師さんの物語をお届けします。茎付きのサトイモ、殻付きの牡蠣…一緒に届ける食べ物もなるべく自然に近い状態にしています。ぜひ家庭で畑や海の香りを楽しんでください。

運営者情報

株式会社ポケットマルシェ
〒025-0096 岩手県花巻市藤沢町446-2
TEL:0198-33-0971
代表者:高橋博之
運営責任者:岡本敏男

連絡先:info@taberu.me

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