さいき・あまべ食べる通信|鶴見・沖松浦のマリンレモン(バックナンバー公開2/2)

その1はこちらから


 珍しい国産の緑色のレモンは順調に売れ、畑も拡張した。妻の勝子さんも、茄子やオクラを作りながら、時間がある限りレモン畑を手伝った。二人三脚でのレモン栽培が軌道に乗り出した昭和60年、宗三郎さんは新たな賭けに出る。コストのかかるビニールハウス栽培をやめ、露地栽培に切り替えることにしたのだ。「独学やったけど、実は加温しすぎても良くないという結論に行きついて、それならコストがかかるハウスはやめようと」。

 実は、宗三郎さんが露地栽培に踏み切った理由は、コスト削減だけではなかった。その頃、輸入レモンの出荷作業を見る機会があった。「輸入する途中に腐って出荷が出来ないレモンがゴロゴロ出て来るんよな。ああそうか、出荷できるピカピカの黄色いレモンはそれだけ防腐剤をたっぷりかけられとるんだ、って思ったら、価格の安い輸入レモンに勝つためには、わしらは、”安心安全なレモン”を作らないとだめだ、と思ってね」。農薬もやらない。ビニールハウスもかけない。加温もしない。安心して皮ごと丸ごと齧れる”きれいなレモン”を作る。「レモンは低温に弱い」という当時の常識を破る、宗三郎さんの新たな挑戦が始まった。

 風雨に弱い露地栽培のレモンにとって、最も怖いもののひとつは、台風だ。特に、秋台風の通り道に当たる佐伯には、毎年、収穫直前の8月から9月末にかけての大切な時期に、いくつもの台風がやってくる。台風のたびに、遮るもののない山の斜面の畑には突風が吹き付け、前も見えないほどの豪雨が叩きつけた。そんな中でも、宗三郎さんと勝子さんは、足場の悪い急斜面を歩き回り、約40本のレモンの木ひとつひとつに添え木を作った。添え木で支えきれない幼木は、一晩中、子供のように抱いて支えた。

「台風の晩は寝れんかったなぁ。でも、作れば作るほどよう売れて、面白かったなぁ」。

レモンの輸入自由化で
国産レモンの価格暴落

 自分たちが始めた”マリンレモン”がどんどん売れる。全国に広まってく。宗三郎さんはもちろん、鶴見のレモン農家全体が活気づく中、鶴見の町全体も、勢いに乗っていた。昭和58年、全国に先駆けて「第1回豊かな海づくり大会」が開催され、翌59年からは町をあげての水産業のお祭り「つるみ農漁祭」が始まったのだ。

 ところが、ここに農産物輸入自由化の波がやって来る。昭和61年GATTウルグアイラウンド開始を受け、昭和63年、日米農産物交渉が合意され、レモンを含む柑橘類の輸入自由化が大幅に拡大されたのだ。価格の安い輸入レモンに押され、あっという間に国産レモンの価格は暴落。一気に6分の1まで下落した。採算が合わない。1軒、また1軒、一緒に始めたレモン農家たちは次々とレモンをやめていっき、ついに宗三郎さん1軒になった。

 収入の減った宗三郎さんは、畑に出ない時間を使って再び海に潜り、水産物の卸売りを始めた。勝子さんはチリメン工場のパートに出た。それでもレモンはやめない。「やめるならやめてもらった方がええ。迷いはなかったな。食っていかなきゃいけんしな」。なんとか利益を出さなければ、と模索する中、宗三郎さんは、マリンレモンの果汁の使った郷土銘菓やジュースの商品開発、農協の理事も務めるようになる。仲間に声をかけて、マリンレモン研究会も発足させた。

 そんな時、宗三郎さんに声をかけたのが、山を超えた隣町、米水津(よのうづ)で水産加工業株式会社やまろ渡邉を経営する、渡邉正太郎さん。「うちも宗三郎さんちも元々は漁師で、この辺りの水産業はみんなどっかで繋がってる大きな家族のようなもの。人が良くて真っ正直にレモンに取り組んで来た宗三郎さんを知ってるから、何かできないかと考えてね」

 渡辺さんの仲介で、東京の食材専門店「明泊屋」との直接取引が実現。これを機に、食への関心が高い消費者に、国産レモンの中でも生産量が少ない稀少レモンとして、マリンレモンが知られるようになっていく。以前のように飛ぶように売れることはないものの、労力に見合う適正な価格で、固定ファンを中心に売れるようになった。宗三郎さんのマリンレモンは息を吹き返したのだ。

これからは夫婦ふたりで
出来る範囲のレモン作りを

 取材に伺った翌日、勝子さんは白内障手術の検査を受ける予定になっていた。宗三郎さんは、今年83歳。勝子さんも79歳になった。思い籠を持って急坂を上り下りする毎日の作業は、正直、身体に応えるようにもなったという。「近く住む次男に、もうできる範囲にしとけよと言われてね。登るのがよだきい(疲れる)から、山の上の方の畑は仕舞いにして、昨年、近場の木を伐った」

 ゼロから夫婦ふたりでやってきたレモン畑。やめる時も業者には任せず自分の手で伐るというのが宗三郎さんらしい。自分で伐れるうちに終えるということだ。後継者はいないのだろうか。「次男が継ぐといって農業大学校に進学したけど、同じ鶴見の水産会社の女性と結婚して、今はそっちを経営しとるから」。

 子供たちには好きな道を進んでほしい。宗三郎さん夫婦のその思いが変わることはなかった。他にも、宗三郎さんのレモン畑を継ぎたいという声もあるようだが、今は考えていないという。それだけ、宗三郎さんにとってレモン畑は、自分の体の一部のようなものなのだろう。

 高齢化問題は、宗三郎さんのレモン畑だけの話ではない。かぼすや、みかんの産地である大分県全体の柑橘系農家の問題でもある。人手不足で畑をやめるケースも少なくなく、縮小してるのが現状。大分県も高齢化による人手不足の問題を、例えば柑橘の選別など、単純作業で行えるものは福祉分野との連携(農福連携)により解消できるのではと、新しい雇用の選出まで視野にいれて動いている。ひとりの生産者がいなくなるということは同時にそこにある食文化自体も消えてしまうことでもある。非常に頭の痛い問題ではある。

 最近、宗三郎さんは、家を建て替えた。100坪の敷地に立つ二階家は夫婦ふたりには広すぎると、平屋建にしたのだ。新築した家の客間には、古くは加薩清正に仕えたという代々当主の写真と共に、ひときわ大きな額縁が飾られている。平成18年に受賞した勲章、旭日単光章だ。ずっしりとした額縁に納められた表彰状は、マリンレモン一筋に人生を捧げて来た宗三郎さんと勝子さんの熱量を伝えるかのように、鶴見湾に暮れる夕暮れの陽射しを映して、鈍い金色に光っていた。

以上


『さいき・あまべ食べる通信 vol.7(2018年10月発行)』より特集記事を抜粋

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