さいき・あまべ食べる通信|鶴見・沖松浦のマリンレモン(バックナンバー公開1/2)

廣津留宗三郎さん(83)勝子さん(79)ご夫婦 ※ご年齢は発行時

 食べる通信で過去に特集した記事をご紹介する「バックナンバーアーカイブ」。今回は『さいき・あまべ食べる通信vol.7 (2018年10月発行)』で特集した、大分県佐伯市で「マリンレモン」を育てる廣津留宗三郎さん、勝子さんご夫婦の物語です。

 今回のバックナンバー公開をなぜ行なうに至ったのか、さいき・あまべ食べる通信/編集長の平川摂さんより、メッセージをいただきましたので、以下に原文のままで記載させていただきます。
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 2020年9月7日、台風10号が大分県を直撃するということで万全の準備をした朝に訃報が届いた。2018年秋号に登場していただいたマリンレモン生産者の廣津留宗三郎さんがお亡くなりになった。2週間前に携帯に電話を入れ今年のレモンの状況を聞いたところだった。「今年は畑に行けてねえからレモンは出せんかも」と。朝から涙が止まらなくなってしまい、宗三郎さんに会いに行けたのは翌々日の昼からでした。お線香あげ、畑に行ってレモンを少し頂くことに。取材の時には雑草すらなく枝もしっかり切り落としていた木々は荒れてとても寂しげに見えた。
 追悼の意も込めて、マリンレモン農家 廣津留宗三郎さんを知ってもらえると幸いです。宗三郎さん、本当にありがとうございました。
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 食べる通信を代表して、謹んでお悔やみ申し上げると共に、在りし日の元気な、廣津留宗三郎さんをの生きざまをご覧いただけますと幸いです。全2回分、同時に公開します。

その2はこちらから


ふるさとを、知る。ふるさとと、繋がる。ふるさとを、残す。

さいき・あまべ食べる通信 vol.7

(2018年10月発行)


元漁師が守り続ける、鶴見最後のマリンレモン。

 佐伯市鶴見。佐伯市街地から南へ、車で15分。平成17年3月、佐伯市に編入される以前は、鶴見町と呼ばれたこのエリアのことを、地元では今も「鶴見」と呼ぶ。古くから水産業で栄え、大分県一の水揚げ高を誇る鶴見市場を有する。血気盛んな鶴見の人たちの心意気だろうか。今回取材した鶴見最後のマリンレモン農家、廣津留宗三郎さんも、そんな、鶴見っ子らしい冒険心と負けん気を持った、元漁師のレモン農家である。

まだ誰もやっとらんから、レモンをやろう。
鶴見湾を臨む山の畑は甘夏の里からレモンの里へ

 9月半ば、暑さのピークは過ぎたとはいえ、今日も最高気温は30℃を超える中、車1台がやっと通れる簡易舗装の坂道を、軽トラックがぐいぐいと昇ってゆく。荷台には、黄色い地にくっきりと「広宗」マークの入ったコンテナ。宗三郎さんの軽トラックだ。

 鶴見湾の背後、急峻な山肌にへばりつくようにして、宗三郎さんのレモン畑はある。元々は甘夏の産地として知られた山の斜面に作られたレモン畑は、風通しが良く、1年を通して日当たりが良い。宗三郎さんの背の高さの倍程もあるレモンの木の草陰からは、鶴見湾に反射する太陽の光が零れる。

 「雑草が生えるから、畑には毎日登る。1日でも放っておくと伸びるんだよ。」話しながらも一時も手を休めることはなく、屈んでは小さな草を抜き、余分な枝があれば切る。足元を見れば、雑草はひとつも生えていない。歩くとふわふわするのは、もみ殻を敷いているからだ。こうすると、雑草が生えにくく、レモンの根も守ることができるのだという。このもみ殻の下には、宗三郎さんがレモンの栽培を始めた35年前から、自ら山を切り拓き、妻の勝子さんと共に、毎年手塩にかけて耕し続けて来た土がある。

”きれいなレモン”を作りたい。レモン栽培の常識を破る宗三郎さん

誰もやってないから作る
17軒で始めたレモン栽培

 昭和33年、サザエやウニの卸業を手がけていた宗三郎さんが、裏山を切り拓いてレモン栽培を始めたのは、当時大学生だった長男の秀樹さんのひとことがきっかけだった。「県の果実連の人に、レモンやってみらんか(みないか)と誘われて迷ってたら、”農業やるなら、誰もやってないものを作ったら?”って言われてね。俺の性格をよく知ってる(笑)。」

 昭和10年、宗三郎さんは、鶴見の巻き網漁師の家で生まれた。平地の少ないこの地域では珍しく、米も作る半農半漁の家だった。負けん気の強さは子どもの頃からで、体は小さいが相撲が強く、中学時代には、消防用のホースで自作したまわしで大会に臨み、南海部郡(みなみあまべぐん)中学大会で優勝。成長期に毎日すり足の練習に励んだせいで、今でも両足の親指は外反母趾のように内側に入り込んでいる。

 目標を決めたら邁進する性格の宗三郎さん、教師に県随一の進学校を進められる程成績も良く、特に理数系は得意だったが、進学の夢は叶わなかった。漁師の家に高校進学は必要ない、という考えが普通だった時代。年の近い叔父が進学していないのになんでお前が、という理由で、高校進学を断念、家業を継いで巻き網漁を始めた。「悔しかったよ、勉強したかったから。諦めて漁に出始めたけど、やっぱり飽きてきてしまってな。田舎は面白くないと22で飛び出した。」

 行先は、静岡、トンネル掘削の出稼ぎだ。「豊後土工(どっこ)」である。佐伯市沿岸部から漁の閑散期に出稼ぎに行く「豊後土工」は、大正時代にトンネル続きの難工事が続いた日豊本線敷設工事が始まりだといわれる。不屈の精神と技術力で知られたさいきあまべの男たちは、大正期から昭和の高度経済成長期にかけて、日本中のトンネル工事を支え続けた。宗三郎さんも、静岡、東京、愛知、山口と、佐伯に戻ってはまた掘削に出かけるという暮らしを続けたのだ。

 面倒見の良い宗三郎さんの周りには、どこの現場でも自然に若い人が集まった。昭和35年、愛知県の現場では責任者として現場の陣頭指揮を執った。この現場を最後に鶴見に戻った宗三郎さんは、知人の紹介で勝子(しょうこ)さんと結婚。

 所帯を構えたことで、漁の傍ら、サザエやウニ、アワビなどの卸売や農業も手掛けるようになった。3人の男の子という子宝にも恵まれた。「自分が悔しい思いをしたから、子供たちには好きなだけ勉強をさせてやりたかった」という宗三郎さんは、息子たちをそれぞれ好きな勉強が出来る大学、大学院へと進学させた。

 その息子が、佐伯でまだ誰もやっていないレモンの栽培へと、宗三郎さんの背中を押してくれたのだ。「この人は、熱中したら他のことが見えなくなるから」と勝子さんが笑うように、土のこと、肥料のこと、レモンのことなら寝る間も惜しんで勉強した。農協の職員、肥料会社の専門家、レモンに詳しい人がいれば片っ端から話を聞いた。宗三郎さんと、1つ年下で幼馴染の神田宗三郎さんの始めたレモン栽培は、次々と増え、翌年には、鶴見のレモン農家は17軒になった。

命名「マリンレモン」
名付け親は大分知事

 宗三郎さんたちが始めたレモン栽培は、大分県内でも注目された。当時の大分県知事は、地域創生の原点ともいわれる「一村一品運動(市町村ごとに売り出す産品を絞り込み全国にアピールする)」を提唱した平松守彦知事。出来立てのグリーンのレモンを持って挨拶に行った。緑色のまま出荷する自分たちのレモンを「グリーンレモン」と紹介したが、平松知事は、

「グリーンレモンでは地味だな。海辺で作っているので”マリンレモン”にしたらどうか。」

 ”マリンレモン”。確かに、この名なら、海岸沿いの山肌にレモンの実がたわわに実り、爽やかな香りが漂う産地の風景も思い浮かぶ。こうして、平松知事のアイデアを受けて、宗三郎さんたちのレモンは、「鶴見のマリンレモン」として、全国に出荷されるようになった。


その2はこちらから


『さいき・あまべ食べる通信 vol.7(2018年10月発行)』より特集記事を抜粋

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