【バックナンバー公開】大阪食べる通信|堺市「大阪ウメビーフ」を育てる原野親子の物語(2/3)

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 原野家は、元々は明治の終わり頃から子牛を農家に販売する仲買商を営んでいた。但馬牛の子牛を大阪や神戸の農家に斡旋して預け、その牛が成牛すれば、また新たな牛と交換し、引き取った成牛を食肉業者に販売するという仕事をしていた。二代目の「作太郎」は、仲買商の規模をどんどん拡大し、『大阪の原作(はらきく)』といえぱ全国で通じるほど名を馳せた。やがて、時代の移り変わりとともに牛との関わり方も変化していき昭和三十年代になると耕運機が普及し、農家が牛を必要としなくなっていった。それ以前に農家自体が激減していったのである。『原作』の跡を継いだ三代目からは、子牛を買ってきて、食用にするために牛を育てる肥育農家へと変わっていった。そして、現在、黒毛和牛を中心とした肉牛を四代目の祥次さん夫婦と五代目となる息子の作啓さんの三人だけで育てている。仕事のカタチは時代とともに変化してきたが、代々ずっと牛と関わってきたのである。

 祥次さんは男ばかりの四人兄弟の次男坊である。他の兄弟は、休みもなく毎日、毎日、牛の世話をするのは大変だ、とてもじゃないが跡は継げないと、それぞれ家業とは別の仕事に就いた。しかし、祥次さんは大学卒業後、自ら家業を継ぎたいと名乗りをあげ、父親を驚かせた。「まさか、私が継ぐとは思っていなかったみたいやね」跡を継いだ理由を聞くと、「勉強嫌いやったから」と笑いながら答えてくれた。子どもの頃から牛が好きで時間があれば牛舎にいることが多かった。「その頃は、親も猫の手も借りたいほど忙しくて、牛の世話を手伝っていれば、勉強せえとは言われなかったからねえ」と言う。「そのうち、牛と一緒におる生活が自然になってきた」らしい。今でも旅行に出かけるより、牛といる方が疲れないそうだ。「牛は裏切らへんからな。それに牛からエネルギーをもらっているんや」確かにストレスのなさそうな牛を見ているとずっとここにいたくなる。

 先代は厳しい人で、祥次さんに跡を継がせると決めた後も、なかなかすべてを任せてはくれなかったそうだ。しかし、祥次さんが三十二歳のときに先代が急死、牧場のことすべてが祥次さんの肩にのしかかることになる。牧場の経営は、牛が好きだからなんとかできるものではなかった。様々な苦労をしながらも結婚し、子ども3人を育てあげた。そして今から八年前、末っ子の作啓さんが大学を卒業する時に、「俺が跡を継ぐわ」と後継に名乗りをあげてくれた。しかし、祥次さんは「しばらく、外で修業してこい」と作啓さんに外の世界を学ばせる。卒業後は食肉関連の企業に就職し、そこで修業を積み、自分たちが育てた牛がどのように消費者のもとに届くのかを学び、業界に人脈も作って牧場に戻ってきた。五代目として跡を継いで五年が経とうとしている。

エサやりは親子の阿吽の呼吸で行われる

 午後三時。本日二回目のエサやりに付き合わせてもらった。エサの時間は、朝五時と夕方三時の二回である。食事の回数が人問のように三回ではないのには訳がある。牛には食べたものを反すうする時間が必要なため、三回だと牛の消化器に余計なストレスがかかるのだ。エサやりの作業中、二人はほとんど無言でそれぞれのするべきことをテキバキとこなしていく。まるで決められた動線でもあるかのような見事を動きだ。祥次さんが慣れた手つきでエサを運び、作啓さんはそれをエサ箱に入れて行く。阿吽の呼吸だ。

 エサをやりながらも一頭ずつ牛の様子を見て回る。気になる牛がいれば、改めて様子を見にいってやる。落ち着きがない牛にはストレスがたまらないようにケアをする。ブラシを持って近づいただけで、牛が背中を差し出してきた。「掻いて、掻いて」という表情だ。背中をゴシゴシこすってもらった牛は至福の表情でよだれがいっばい出てきた。


その3へ続く|9月6日(日)公開


『大阪食べる通信 第2号(2019年3月発行)』より特集記事を抜粋

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