食べる通信で過去に特集した記事をご紹介する「バックナンバーアーカイブ」。今回は『こうち食べる通信 第5号(2020年5月)』で特集した、高知市内でシャルキュトリ*専門店「Charcuterie 松原ミート」を運営する、松原浩二さんの物語です。
*シャルキュトリ:主に豚肉を使った肉加工品のことで、ハム、ソーセージ、サラミ、パテ、テリーヌ、リエットなど
松原さんはなんと、東京都港区六本木で知る人ぞ知る人気フレンチレストランのオーナーシェフだった方。本場フランスで修業し、東京の一等地に店を構え、シェフ人生を歩んでいた彼が、ご家族共々高知に移住し、肉バル「Bar a Boucherie 松原ミート」として新たな人生をスタート。そして現在は生産者(食肉加工のプロフェッショナル=シャルキュトリエ)に。シャルキュトリの仕事を地域に根付かせ、産業として成り立せることに挑戦しています。一見クールな松原さんの突き抜けたものづくりや仕組み作りへの情熱はどこから生まれていたのかに迫ります。
こうち食べる通信編集部曰く、冒頭見開きの後ろ姿のカットは、現在はシャルキュトリエとして新たな人生をスタートされた”職人”松原さんを表現する為に、今や幻の名店となってしまった「Bar a Boucherie 松原ミート」の厨房に立っていた頃の後ろ姿をセレクトしたんだそう。
そんな松原さんのこれまでの半生を振り返りながら、食のつくり手の想いを感じていただければ、と思います。すべて読み終わった頃には、松原さんのシャルキュトリが食べたくなっているはずです!COVID-19が収まり、安心して高知を訪れられる日を楽しみにお読みください。
2回に分けて公開しますので、ぜひ最後までお楽しみください。
その2|8月9日(日)公開
松原浩二さんは、13 度ミシュランの星に輝いている岸本直人シェフのフランス料理レストラン「L’Embellir(ランベリー)」でスーシェフ*として4年間活躍された方。後に六本木にオープンしたご自身の店「ル・グラン・ソワール」は、国内のさまざまな地域の食材を積極的に扱い、ジビエなどバリエーション豊かな肉、さらにはフグ料理も味わえるフレンチレストランとして人気店だった。その松原さんが高知に拠点を移し、肉バル「Bar à Boucherie 松原ミート」をオープンし、今年3月には肉バル改めシャルキュトリ専門店「Charcuterie 松原ミート」へと進化させてきた。
*スーシェフ:副料理長。 2番手のシェフ。
そんな方だと知らず、オープンされた年にお店に伺った初対面の記憶は「なんて無愛想な人…」。なんだか嫌われているんじゃないかと思い足が遠のいていたが、「松原ミートに連れていって!」「行きたいけど1人で行けないから」など、たびたびお誘いがあり、自然派ワインをこよなく愛するがゆえ、ワインにつられてまた通い始めた。
お店では食材やワインについて「ほー!」「へぇー!」とうなってしまうお話も面白かったし、後に出てくる松原さんが激務を経験された20代から30代は私も同じく東京にいて、土俵は違えど体を壊すまで働き苦しい事もたくさん経験してきたので、つい人とは仕事とはなんぞや的な面倒くさい話を酔っ払いながらしてしまったが、返ってくる松原さんの言葉には本物の重みがあった。松原さんの行動には理論や根拠が必ずある。嫌われているかもという私の勝手な幻想は、こびを売らない態度だと分かりいつの間にか消えていた。
自分なりの理論を持ち、やるべきことは実直に取り組み、目上目下関係なくどんな立場でも言いたいことは曲げずに伝える潔さ。そしていかに効率的にゴールに近づけるかをまずは考え実践し、変わることを恐れずに柔軟にかつ着実に進んでいく。松原さんの魅力は言うなら「正直さが生み出す勘の良さ」。これからの時代必要とされるであろう「野生力」でもあり、それはきっと私たちが口にする食べ物の本質を見極める力のヒントにもなるだろうと思う。だからこそ伝えたいと思う。
学校はつまらなかったけど、唯一夢中になれた図工の時間。小学校、中学校共に授業で作った作品は鎌倉市の大きな賞をいただく腕前だった。中学を出たらバイク屋になりたいと考えていた松原さんを大学まで導いたのは、高卒でお給料が上がらなかったことを悔やんだお父さま。高校進学は機械科を希望するも押し通すほどの強い意思は無く、父からの勧めで普通科を選んだ。そして大学に入って転機が訪れる。
大学は機械科に進学したがやっぱり学校はつまらなかった。一人暮らしになり、ご飯が食べられるという理由で居酒屋の深夜バイトを始め、興味の無かった料理に触れるきっかけになる。ホール希望で入りつつもキッチンの手伝いもあり、宴会が入ったときには包丁を持たされ刺し盛りを作ることに。魚のさばき方を教わると見よう見まねで工作のように作れた。そうして淡々と居酒屋のメニューが全部作れるようになっていた頃、聞こえてくる話の流れから大学は出ただろうサラリーマンが酔っ払って愚痴を言い、店員に絡んでいる様子を目の当たりにしたときに「大学は卒業した方がいい」という言葉になんとなく縛られていた概念が吹っ切れ、つまらないなと思い続けていた気持ちに正直に辞めた。
大学を辞めた頃には居酒屋のメニューは一通り作れるようになっていて、仕事を考えたときには料理しかなかった。居酒屋のおやじさんから「料理をやるんだったらこんなとこでバイトしてる場合じゃないから料理学校へ行け」と言われ1年制の専門学校へ。学校に通いながら地元のイタリアンでアルバイトを始めると、モノを作ることはハマるタイプで言われたことはできるようになる。フレンチの経験があったシェフに「東京のいいレストランに行け」と言われ、目標も特に無かったが「料理の道ってそんなもんなのかな」と言われるがまま受け入れた。
何のつても無くガテン*を見て東京のフレンチカフェレストランに入った。やはり1年ほどで全てのポジションをこなせるようになった。ホテル経験があるシェフに「その歳(当時25歳)でそんくらいできるんだったらもっと本格的なお店に行け」とまたもや助言を受け、やはりガテンで探して「オーバカナル*赤坂店」 へ。
*ガテン:リクルートから出版されていた求人情報誌の名称。1991年9月創刊。土木・建築・ドライバー・調理師・メカニック等、いわゆるブルーカラーに特化した求人情報の提供を行っていた。2009年に休刊となっている。発行部数は4万2000部。(出典: Wikipedia)
*オーバカナル:本場の賑わいと味わいが息づく空間の中で“ フランスの大衆食文化を伝える” をコンセプトにフレンチスタイルを追求したカフェ。カフェ、パン屋、レストランで成り立ち、その当時のレストランは厳しいキッチンで知られていて、この時代にオーバカナルで鍛えられた料理人たちは現在はトップクラスのシェフとして活躍している方が多い。
どのお店でも仕事はできる方だったのが、オーバカナルに入ると一変、同年代はめちゃくちゃ仕事ができてオーダーは全てフランス語、ランチ300人分をスタッフ10人でこなし、ディナーでも60〜70人が並ぶすさまじいキッチン。
ランチ300人分の仕込みは付け合わせのジャガイモだけでも40キロ!仕込みは夜中まで続き、3時まで仕込みをしてソファで寝て8時に起きても終わらずそのままランチが始まる。想像を絶するキッチンでの日々が腰のヘルニアを悪化させてしまい、その頃はフレンチにハマり始めていたので辞めたくなかったが、身体を限界まで酷使し、辞めざるを得ないところまで追い込んでしまった。
次は腰の負担を考え、規模の小さなお店を探し始めた。毎月欠かさず見ていた「専門料理」という料理雑誌の中で抜群に良かった銀座「オストラル」を見つけた。募集は出ていなかったが電話をして、2日間研修を受けることになり、岸本直人シェフと出会う。オーバカナルで2年鍛えた松原さんの動きを見た岸本シェフに「仕事はできるみたいだけど3人待ちだから、別のお店紹介するから空き待ちしてて」と言われ、働き始めるとあっという間に2カ月で順番が回ってきた。オストラルも朝7時から夜11時まで週6勤務でしんどかったが、「どんなにキツくても週1回は休みがあって家に帰れるからマシだった」と、オーバカナルで2年鍛えられた感覚はまひしていた。
シェフの味見が本当においしくて。いい素材を使うのはもちろんだけど、「ちゃんと作ったら料理ってこんなにうまいもんなんだ」と、どんどん面白くなっていった。オストラルに入って2年ほど経った頃、岸本シェフからフランス料理をやるならフランスに行っておけと言われ、ワーキングホリデー*を利用し1年渡仏した。同じくワーキングホリデーでフランスで働いていた、今の奥様・香奈美さんとも出会うことに。
*ワーキングホリデー:2国間の協定に基づいて、青年(18~25歳、26歳、29歳または30歳)が異なった文化(相手国)の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために一定の就労をすることを認める査証及び出入国管理上の特別な制度。原則として、各相手国ごとに一生に一度しか利用できない。(出典:Wikipedia)
最初に働いたのはパリのホテル。メインダイニングは2つ星を取っていた店に入ったが、キッチンでの理不尽な出来事に真っ正面に向かってしまったことで松原さんのポジションはもめた。その次の店でも同じようなことがあり人間関係を崩しそれぞれ2週間ほどで辞めたが、そのあたりからフランス人の気質を理解できてきた。3軒目は「Ze Kitchen Galerie(ズ・キッチン・ギャルリー)」(パリ6区)の3番手のポジションで迎えられ、ようやく7カ月働いた。
このパリの店では、東南アジア系の調味料やみりん、酢、ハーブ、スパイスなども使ってオリジナリティーを出していて面白く刺激になった。松原さんが後に立ち上げた「ル・グラン・ソワール」はフランス料理の枠にとらわれすぎないスタイルだったが、このパリでの研修が少なからず影響していた。
その頃オストラルが閉店し、新しい店「L’Embellir (ランベリー)」を立ち上げると聞き、その準備でパリに来た岸本さんと再会することになった。絶滅の危機だった「バスク豚」を救った英雄としても知られるシャルキュトリのスペシャリスト、ピエール・オテイザ氏*4 を訪ねてバスクに行くと聞き、松原さんも休みを取り岸本さんと一緒にバスクへと向かう。豚を飼いながら本場のシャルキュトリを作る生活を見たいと思い、パリの店を辞め山ごもりしながらオテイザさんの元で学んだ。その後岸本さんからスーシェフ*5として戻って来ないかと話をいただき帰国。
パリでオーナーシェフの店で働いた経験から漠然と独立を考えていた。例えば、松原さんは食材をできるだけ捨てずに無駄なく使いたいと考えるが、オーナーによっては余った食材を簡単に捨ててしまう。オーナーとシェフの考えが違うとそうしたことが起きる。食材を大切に扱えるのは自分のやり方でできるオーナーシェフだなと。「L’Embellir」に声がかかった時には「いずれ独立したいので経営なども見たい」と伝えた上で入られたそう。
そうして4年間「L’Embellir」のスーシェフとして活躍した後、独立へ。岸本シェフは今でも松原さんご家族のことをいつも気にかけてくださっていて温かいご縁が続いている。
⇒その2へ続く|8月9日(日)公開
『こうち食べる通信 第5号(2020年5月発行)』より特集記事を改編/抜粋
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