【バックナンバー公開】ふくおか食べる通信・創刊号|福岡県朝倉市・秋吉智博さんの物語(1/3)

ふくおか食べる通信_秋吉さん正面写真

食べる通信の過去の特集号を一部ご紹介する「バックナンバーアーカイブ」。

今回は、2017年11月、ふくおか食べる通信の創刊号で特集した福岡県朝倉市の農家・秋吉智博さんの物語です。

2020年7月上旬、熊本県南部を中心とした豪雨災害は記憶に新しく、今現在も被災された地域の皆さんは懸命な復旧作業の真っ只中にありますが、ちょうど3年前の2017年7月5日、九州北部豪雨が福岡県を直撃し、秋吉さんの住む朝倉市も甚大な被害に見舞われました。

自然と共にある生産者として、彼は近年、日本で頻発する自然災害をどう捉えているのか。自然に近い彼らから、私たち消費者が学べることは何なのか。そもそも、なぜ彼は農業を始め、今どんな想いで仕事に従事し、そして今後どうしていきたいのか。

創刊から編集長を務める「かじさん」こと、梶原圭三氏が何度も秋吉さんのもとに通って、関係性を築いたからこそ書けた良記事です。複数回に分けて公開しますので、是非、最後までお楽しみください。

その2|7月24日(金)公開

その3|7月25日(土)公開


ふくおか食べる通信・創刊号(2017年11月)

文:梶原圭三 写真:カワカミカズヨシ他

ふくおか食べる通信_秋吉さん_見開き1_2P目

福岡県朝倉市杷木志波(はきしわ)の政所(まんどころ)地区麻氏良山(までらやま)の麓、南向きの斜面には、たわわに実った柿畑が広がっている。「ここの景色最高でしょう!この景色を残したいんですよね」

約1万3000坪にもなる広大な柿畑を眺めながら秋吉智博さん(37歳)は素敵な笑顔で語ってくれた。その柿畑をあの豪雨が襲った。7月5日のことだった。

長い夜の始まり

その日、智博さんは柿山のふもとにあるビニールハウス内で、一人黙々と作業中だった。「こりゃー恵みの雨やね」今年、空梅雨で雨が少なかったこの地域。そろそろ雨が欲しいと思っていた矢先の雨だった。「これで少しは潤うやろ」そう思いながら智博さんは作業に没頭していた。

ハウス内に響く雨音は実際の雨量よりも大きく響く。しかし、この日は今迄に聞いたこともないような雨音の轟音がハウス内に響きわたっていた。「こりゃ、ヤべぇな」。夕方近くハウスから出た智博さんは、柿山を覆い尽くした真っ黒な雨雲を見た瞬間、背中に寒いものを感じた。しかし、この時点ではまさか、柿畑が土砂や流木に埋め尽くされる事になるとは夢にも思っていなかった。

7月5日の長い夜の始まりだった。

ふくおか食べる通信_九州北部豪雨被害1

▲2017年7月当時の九州北部豪雨被害直後の様子

100年の歴史

朝倉市杷木志波政所地区。

ここで約100年前、智博さんの曽祖父藤五郎さんが一本の柿の木を植えた。当時、柿の栽培は徐々に全国に広がりつつあり、ここ朝倉市杷木志波地区でも山鹿秀実氏なる人物が、岐阜県から苗木を取り寄せて植え付けたのが志波富有柿の起源とされている。藤五郎さんが植えた柿の木は今でも現存して立派に実をつけている。樹齢100年の柿である。

そして戦後、智博さんの祖父、種二さんが本格的に柿栽培を始める。当時は桑畑や栗畑、山林等だった土地を改植して約6000坪(約2町)ほどに富有柿を植えていった。現在のように重機などが充実しない当時の改植は大変な重労働だったに違いない。それをやり遂げた種二さんとその家族のご苦労は今でも秋吉家の強い絆として残っている。

祖父種二さんの柿栽培を継いだのが、父康司(やすし)さんである。康司さんは、種二さんが植えた富有柿に加えて、新しく開発された品種の西村早生、伊豆早生を新規改植した。その広さ約2000坪(約6反)。智博さんは、そんな戦前から続く柿農家の長男として1980年に生を受けた。

実は、智博さん、若い頃は柿農家を継ぐつもりは全くなかった。地元の進学校に入学。大学を目指し、勉強とバレーボール部の活動に明け暮れる毎日だった。ご両親もそんな智博さんに柿農家を継がせる事は考えていなかったようだ。きつい、汚い、カッコ悪い、稼げない。ご両親の苦労を目の当たりにしていた智博さんの農業に対するイメージだ。大学に進学し、都会に出て働く、という多くの人が歩んだ道を智博さん自身も歩もうとしていた。

しかし、そんな日常を一変する出来事が起こった。父親の康司さんが脳梗塞で倒れ、一週間後に帰らぬ人となってしまったのだ。享年48歳。

智博さん、高校3年10月の出来事だった。

俺が継ぐ

父康司さんが昏睡する病室で18歳の智博さんは考えていた。「俺がやるべき事はなんやろか?」「もし、俺が継がんかったらこの柿畑はどけんなるっちゃろか?」数日間、悩みに悩み自問自答を繰り返した。そして出した結論は「俺が継ぐ」だった。

当時の事を母親のマチ子さんはこう振り返る。「家の事は気にせんで大学行ってよかよ。って言いました。じいちゃんと私でなんとかするつもりでした」なんとも親の愛情を感じる一言ではないだろうか。それでも智博さんは、「俺が継ぐ」という意思決定を変えなかった。姉と妹に囲まれているものの長男である智博さん。「長男としての自覚ですかねー。自分の中では、葛藤が無かったと言えば嘘になりますけど、自然にそういう気持ちが湧いてきましたね」

一度決めたら行動が早いのが智博さんの特徴。3ヶ月後に控えていた大学入試センター試験を受けず、筑紫野市にある農業大学校に出願した。2年後、農業大学校を卒業した智博さんは就農した。智博さん20歳の時だった。

父との会話 

就農当時は、一般的な慣行栽培で柿を栽培した智博さん。「マニュアル通りにいかんとですよ」と笑いながら当時を述懐してくれた。智博さんの柿畑は、ほとんどが南向きの山の斜面を利用した段々畑。農業大学校で学んだ栽培環境とは大きく異なる。その土地、その土地にあった育て方の工夫が必要なのだ。しかし柿畑の事を熟知している父親の康司さんは、もうこの世にはいない。その時に役立ったのが、康司さんがほぼ毎日欠かさず記録していた栽培日誌だった。約20年分にも及ぶ栽培日誌は智博さんの教科書となった。「5年分くらいの経験値にはなったでしょうね」中高時代、父康司さんと農業の会話はほとんどしなかったという智博さん。この栽培日誌を通じて康司さんとの会話を繰り返した。今でも、悩んだ時はこの栽培日誌で康司さんと会話をしている。

ふくおか食べる通信_秋吉さん_栽培日誌

自分がやる意味

就農後、3年目を過ぎた頃から徐々に疑問が湧いてきた。慣行栽培で普通に柿はできるようになった。しかし、できた柿を自分が作った柿と言って自信を持って勧められるのか?智博さんは悩んだ。そもそも、農業を継ぐ気がない自分が継いだ意味はなにか?自分がやる意味はなにか?自問自答を繰り返した。そして行き着いた答えは、自信を持って勧められる、柿本来の甘さや香りを感じられる美味しい柿を作る事だった。

一度決めたら行動が早いのが智博さんの特徴。この時もすぐに減農薬と化学肥料の削減に取り組んだ。智博さんはこの試みの意義をこう語る。「そもそも、減農薬と化学肥料の削減は、味への追求からです。農薬は有効成分が殺菌、殺虫の効果を出しますが、散布によって植物を皮膜し、太陽の光を遮断し、植物の光合成を抑制することにつながります。また、化学肥料や農薬が園地に流れ、微生物の活発な活動を抑制します。この状況を少しでも減らそうと思っています。植物の光合成、微生物、小動物の活発に生きる土が、美味しい柿を実らせてくれるんです」

「加えて、農薬を柿に散布しなくてはならないという私達は、
大丈夫なのだろうかと疑問を抱きました。カッパ、マスク、ゴム手袋、メガネ着用ですからね。
きれいな大きな柿を作る為には、仕方がない事と割り切っていましたが、
安易に農薬、化学肥料を使用する事は、やはり抵抗がありました」安全で安心だけでなく、柿本来の甘さ、美味しさを追求できる作り方。これに挑戦する事が、智博さん自身がやる意味だと見出した瞬間だった。

ふくおか食べる通信_秋吉さん柿作業

その2へ続く|7月24日(金)公開


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