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父親が生きていたら、蓮根農家は継いでいなかったでしょうね。
〜14歳で父が他界。祖父から承継した、蓮根農家という仕事。
「父は私が14歳のときに病気で他界しました。」寛也さんは話す。「父が生きている頃も、つまり私が子どもの頃から、両親よりも祖父母と過ごすことが多く要するに私はおじいちゃん子、おばあちゃん子でした。というのも、両親はとにかく農作業などで忙しく一緒に居る時間は限られていたので、想い出も祖父母と一緒に行った近所の喫茶店や本屋や、そんなのが多いですね。祖父は一昨年肺がんになり、心筋梗塞も経験していますが、いまも健在でとにかく昔から何でもできちゃう人です。生け花や日曜大工や…印象深いのが就農してすぐ、私の未熟さゆえなんですが、トラクターを田んぼに入れ泥濘にはまり動けなくなったときも祖父が悠々とユンボで登場し、難なく引き上げてくれました。」寛也さんが話す傍らで沙紀さんもそうそう!とうなずく。
「私には妹と弟がいるんですが、父が亡くなったとき、子ども心にも家を継ぐのは私、長男の役目みたいな使命感というか義務感みたいなものはありましたね。ただ、継ぐことまでは決めていませんでした。将来の夢だった昆虫博士は諦め、大学は経営学部を選択しました。就農したあと、祖父からさまざまな技術を教えて貰うのですが、そこで思ったのは、『父でなく、おじいちゃんだったから家業を継承したのだろうなあ』ということでした。もし父が生きていたら、もし父が今も家業を継いでいたら、私は別の道を歩んでいたような気がします。」寛也さんの言葉に農家の事業継承という難しさが見え隠れした。それでも寛也さんが就農を決心したのは、亡き父が残した「迷ったら人と違うことをしなさい」という教えがあったからだ。
ユニークすぎる父でした。亡き父は今も私の心のなかに生きています。
「私の父はユニークすぎる人間でした。」寛也さんは楽しそうに話す。沙紀さんも寛也さんの父親のエピソードをよく知っているようで、微笑みながらうなずく。「これは祖父や祖母、母、父の友人に聞いた話ですが、高校時代はギター狂いの若者だったみたいで、高校は地元の有名進学校でしたが、当時流行っていたのかアコースティックギター部に入部し、朝から晩までギターの練習に明け暮れていたようです。父の友人の話では、朝、家を出るとき『今日は弦が切れるまで家には戻らないから』みたいなセリフを残して登校した日もあったようです。その甲斐あって?大学受験はことごとく失敗(苦笑)!結果として四年間、風来坊として放浪していたようです。父の友人に聞いてもこの四年間のことは誰も詳しく知りません。父は1962年(昭和37年)生まれなので、世の中はバブル景気前夜です。ただ、父の気ままな暮らしも長続きはしませんでした。それは祖父が我が子を見かねてカミナリを落としたからです。それで観念して農家を継ぐことを決意、『日本一、ギターのうまいレンコン農家!!』のキャッチフレーズで農業に勤しみます。ただ、就農後も父の行動は破天荒でした。」寛也さん夫婦は、このあと聴いている私たちも驚くような話を始めた。
「いまでも当時の父の先見性に私たち夫婦は感心してしまうのですが、まず、農家の流通革命をたったひとりでやったことです。直販をはじめたんです。父の考えはこうです。『せっかくどこよりも美味しい蓮根を作っても農協が買い上げれば、他の生産者の蓮根と混ざり、どこの誰がつくったモノかが判らなくなる。時間的に鮮度も下がる。それなら、うちの蓮根を直販すればいい!』と。」これはいまの時代であれば当たり前すぎる販売手段だが、当時そのような発想をする生産者は国内でも希少だったはずだ。「そして当時は、出たばかりのパソコン、ウインドウズ95を使いネットで販売をはじめたんです。蓮根を詰める箱も父自身がデザインしたものです。いま、私たち田島蓮園のパッケージにも、そのデザインは継承されています。私が14歳のときに父が亡くなったのは事実ですが、その父は私のなかに、生きているように思います。最後に、父は祖父同様に多才な人だということは判っていただけたと思いますが、やはり変わった人でもありました。大学受験のとき、アートにも興味があったのか芸大を受験したそうです。その際、デッサンの試験で配られる消しゴム代わりのパンを、お腹が減っていたので食べてしまい不合格になったと聞きました(笑)」
誰でも先代から引き継がれるモノはある。しかも様々にかたちを変え、それらは引き継がれていく。寛也さんの話を、行きつけの喫茶店でじっくりと聞きながら、田島蓮園が継承している無形の宝物の多さと深さに気持ちが震えた。
「私は、蓮が好きです。奥が深いんです…深すぎて、深すぎて。」
〜妻・田島沙紀さんより
個人的な話ですが、寛也さんとの出会いは、就活時に大手の農機具メーカーさんの会社訪問とかで何度か顔を合わせたのがきっかけで自然にお友だちのような感じになりました。卒業後は、私は有機農産物などを扱う販売会社に勤め、寛也さんは愛西市で就農。少し連絡が途絶えました。
しばらくして私の仕事の関係もあり、寛也さんが流通事情などを知りたくて…ということで、よく連絡を取るようになり、東京で会うなどのお付き合いが始まり、現在に至ります。結婚するときも都会暮らしか?田舎か?営業の仕事か?生産者か?正直迷いはありましたが、蓮根という食材だけではなく蓮そのものに私が魅せられたことが、いまの人生になっています。多くの方が私たちの畑まで遊びに来ていただき、蓮の奥深さを感じて貰えればとても幸せです。
以上
『あいち食べる通信 vol.3(2019年9月発行)』より特集記事を抜粋
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