経済優先で失った「命」の軸を取り戻したい、水俣から挑む「食」の恩返し−−『水俣食べる通信』編集長・諸橋賢一 <後編>

2016年4月、水俣で諸橋さんを取材した数日後に熊本地震が発生。諸橋さんは地震直後から水俣の有志でチームを立ち上げ、物資の支援活動に奔走した。ところが震災から1週間後、『水俣食べる通信』の発行元だった勤務先の事業整理に伴い、諸橋さんは突然解雇されることに。創刊してまもない『水俣食べる通信』も存続のピンチに直面した。

■熊本で震度7、東北での経験が生きる

――熊本地震が発生して1年半。諸橋さんや『水俣食べる通信』を取り巻く状況にもいろいろな変化がありましたね。

『水俣食べる通信』は現在、僕が個人で発行しています。熊本地震の影響で発行元が変わり、昨年8月に体制が整うまでお届けが遅延した時期もありました。読者のみなさんや応援してくださった方々には本当に感謝しています。現在の読者数は約200人(2017年8月末)で、約半分が地元の読者です。

――熊本地震が起きた時、諸橋さんはどうされていましたか?

前震(4/14)が起きたのは、熊本城の近くで『水俣食べる通信』の座談会を終えた直後。翌日は「水俣食べるBar」という福岡のイベントに参加し、深夜に帰る途中で本震(4/16)に巻き込まれたんです。熊本市内で信号待ちをしていたら強烈な横揺れを感じて、ただごとじゃないと思いました。揺れが収まると、街は停電して真っ暗。家の塀が崩れたり、砂ぼこりやガスの臭いがたちこめていました。道路や橋も地割れや陥没で通れない。八代市内の埋め立て地も液状化していたので、迂回しながらやっとの思いで水俣に戻りました。

――私も熊本に家族や多くの友人がいるので、本震が起きた夜のことは忘れられません。

熊本県内はインフラや物流がすべて止まり、県外からの物資やマンパワーを受け入れることができない状況でした。インフラが復旧するまでは、自分たちで力を合わせて何とかするしかない。僕が暮らしている水俣は、熊本県南部で鹿児島との県境にあります。幸いにも被害が少なかったので、水俣は物資を集める後方支援拠点になると思いました。さっそく地元の有志で「水俣Hub-Power」というチームを立ち上げて、食料や水、紙おむつ、粉ミルクなどを集めて支援活動を始めたんです。

――東北でのつながりや経験がとても役に立ったのですね。

地震直後から、東北で出会った仲間からは次々と連絡や支援の申し出がありました。「頼むぞ」と声をかけられてプレッシャーはありましたが、本当に心強かったですね。とにかくやるしかない。自分のなかでスイッチが入りました。

当時は眠る暇もほとんどない状態。水俣から片道4時間かけて被災した地域に向かい、困っている人や孤立状態の避難所を探しました。現地で必要なものはめまぐるしく変わります。避難所では必ず連絡先を聞いておき、事前に必要なものを確認して届けました。物資の調達や支援のマッチングでは、東北でのボランティア経験や知恵が役立ったと思います。知りあいの農家さんにお米や野菜を分けてもらったり、地元の方も物資の仕分け作業に協力してくださいました。

■震災1週間後に解雇に、『水俣食べる通信』存続のピンチ

――被災地から少し離れたところに支援拠点を作り、ニーズを聞きながら必要なものを必要な人に届ける。岩手の「遠野まごころネット」で得た支援のノウハウが「水俣Hub-Power」の初動にも生かされたのですね。

そうですね。震災から1週間ぐらい経つと、少しずつライフラインが復旧し、状況が落ち着き始めました。その矢先に突然、僕は会社から解雇されることに。創刊してまもない『水俣食べる通信』も熊本地震の影響で事業整理となりました。

2016年6月に予定していた『水俣食べる通信』第3号は、やむなく発行を延期。僕自身も自分の気持ちを整理する時間が必要でした。突然の解雇はショックでしたが、やっぱり僕は水俣にいたい。『水俣食べる通信』は続けてこそ意味がある。このままじゃ終われないと思いました。だから、自分が発行元になって続けようと決めたんです。

――熊本地震の影響で『水俣食べる通信』がどうなるのか。読者のみなさんも心配して見守っていたと思います。

第3号は2ヵ月後の2016年8月に発行しました。応援して待っていてくださった読者のみなさんの気持ちが本当にありがたかったです。ただ、遅延の影響はゼロではありませんでした。事情を知らない方もいらっしゃいますし、なかには発行が遅れたことに対するお叱りの声もありました。やはり継続的に発行して、信頼関係を育てることが大切だと痛感しました。

――『水俣食べる通信』を個人で続けようと思ったきっかけは?

一番の理由は、地元の人に「食べる通信を続けてほしい」と言われたからです。特に生産者のご家族からの言葉が大きな励みになりました。水俣で暮らす子どもたちは、いまだに中学校の部活で他の地域に試合に行くと、水俣から来たというだけで「水俣病がうつる」と言われて悲しい思いをすることがあるそうです。『水俣食べる通信』には今の水俣が書いてあります。だから、子どもたちに読ませたいと学校で配ってくださる方もいました。『水俣食べる通信』でなければ表現できないことがあると感じてもらえて、創刊して本当によかったと思いました。

先日、地元の小学校の授業で話をさせて頂く機会がありました。地域学習の授業で水俣について調べると、水俣病のことでネガティブな印象を持ってしまう子どもたちが少なくないそうです。だから、外から移住してきた僕の視点で水俣を語ってほしいと。僕は「東北にも、水俣にも、名もないヒーローがたくさんいる。君たち小学生の一人ひとりが水俣をつくっていくんだよ」という話をしました。未来を担う子どもたちに水俣の良さをもっと伝えたいし、知ってほしいと思います。今年度は地元の保育園で食育などの取り組みもする予定です。

■「食べる」とは、依存すること

――毎回、水俣の今がリアルに伝わってきます。天然の「真鯛」特集には驚きました。

2017年7月の第7号では、天然の「真鯛」を特集しました。当初は「チリメン」を企画したのですが、今年は例年にない不漁で、特集する食材や漁師さんが決まるまで苦労しました。何度も漁師さんのもとへ足を運んで相談をするなかで、今回協力してくださったのが若手漁師の田上智和さんです。

「真鯛」の取材を通じて、僕はあらためて漁師さんが抱えるリスクや課題の多さを痛感しました。田上さんは、一人で漁に出て真鯛やクロダイ、スズキ、アジなどをとっています。小さな漁船で大きな網を操るため、潮流や風向きの影響が大きく、沖へ船を出して漁ができるのは、時期が限られています。養殖と違って、条件が揃わなければ船を出せない。漁に出ても必ず真鯛がとれるとは限らないのです。天然物の魚の場合、サイズの規格もなければ、水揚げの量も不安定で、配送日の指定もできない。読者のみなさんには7月下旬と8月中旬、8月下旬のいずれかの期間をリクエストして頂いて、真鯛がとれた時に届けました。

――気象条件だけでなく、生産者や読者の理解がなければ実現できない試みでしたね。

田上さんが8月中旬に漁に出た夜、水俣は急に激しい雷雨に見舞われました。雷が鳴っても、海の上には隠れる場所がありません。僕は田上さんのことが心配になって、祈る想いで船の帰りを待ちました。その日は大漁でしたが、僕はこの特集でどれほど田上さんに無理なお願いをしていたのかを痛感しました。そして、「食べる」ことは何かに依存することだと気づいたのです。魚を食べることは、漁師さんや海に依存しているということ。自然と対峙して命がけで魚をとる漁師さんがいるおかげで、僕たちは魚を食べることができるのです。「真鯛」特集では、田上さんの想いや緊張感を読者のみなさんも一緒に体感できたのではないかと思います。

■既存の消費社会にない価値をつくる

――現場での気づきや課題を共有できるのも、「食べる通信」ならではと思います。

僕は『水俣食べる通信』が単なる読みものではなく、食べものが一緒に届く「食べる媒体」でよかったと思っています。実際に水俣の食材を味わってもらえますから。たとえば読みものや食べものだけをバラバラに伝えるサービスならば、「おいしい」で終わってしまう。「食べる通信」の場合、食べる人とつくる人がネット上でもリアルでもつながって、お互いの顔が思い浮かぶコミュニティが育っていく。それが魅力ですね。

――『水俣食べる通信』は当初、読者数350人を目標に掲げていましたが、個人で発行するようになって目指すものに変化はありますか?

『水俣食べる通信』を運営しながら気づいたことがあります。それは生産者と消費者をつなぐ濃いコミュニティを育てるための読者数の適正規模と、損益分岐点は違うということです。水俣の場合は小さな生産者が多いので、出荷できる数量やこちらで対応できるキャパシティを考えると300人ぐらいが限界です。それ以上になると運営に無理が生じてきます。ビジネス上の損益分岐点は大事ですが、今は読者数よりも、読者と生産者のつながりの深さや満足度を高める工夫を優先すべきかもしれません。

「食べる通信」によって生みだされる付加価値が一般的なビジネスの指標だけで計れないもどかしさはありますね。そういう(信頼資本のような)付加価値を具体的に可視化できればいいのですが。自分のなかで別の指標になりうる軸を持っておくことも大切です。

――「食べる通信」の創刊を考えている人に向けて、アドバイスがあれば教えてください。

「食べる通信」は創刊してからが勝負です。食べる人とつくる人をつないで、これまでと違う新たな価値をどう創っていくか。「食べる通信」の読者は、現代の消費社会や既存の価値観に飽きている人たちが多いです。そういう読者層に何が届けられるか?そこに挑戦する覚悟が必要です。小手先に走ると読者にすぐに見抜かれてしまう。でも、覚悟を決めて食らいついていけば、面白いものが生まれる可能性があるのではないでしょうか。

■「農」のある暮らしにシフト、山から海をつなぎたい

――諸橋さん自身も、今年から生産者として農業に取りくまれていますね。

今年の春に水俣市内の中山間部に移住して、農業を始めました。屋号は「もろっこ農園」です。僕は諸橋なので、諸々(もろもろ)の橋をかけていきます。「もろもろ」とは、僕が農業で表現したい価値観に近い言葉です。あらゆる命や価値観、人とのつながりを大切にしながら米や野菜を育てて販売し、農業体験ができればと考えています。今年から米づくりを始めました。田んぼの草むしりは大変ですが、自分の手で食べものをつくっている実感があります。稲刈りが待ち遠しいですね。

――なぜ、山間部で農業を始めようと思ったのですか?

漁師で水俣病の語り部だった故・杉本栄子さんは、「山と海がつながれば、街はどげんかなる」とおっしゃったそうです。僕はこの言葉に導かれて山あいの小さな集落で農家になりました。昔は水を中心に田んぼが作られ、集落が形成されていました。水はさまざまな「命」の源で、山と海をつなぐのも水です。今の社会はお金が中心となり、経済的な効率を重視して街やインフラが作られています。杉本栄子さんの言葉は、山と海がつながることで、お金ありきの社会から再び命を尊重する社会にしたいという意味ではないでしょうか。僕もこれからは山から海をつなぎたいと思っています。

――町や海ではなく、山から水俣を俯瞰することで見えてくるものがあるのでしょうね。

僕は山の価値はこれから出てくると思っています。効率が悪いところに、本当の意味での山の営みの価値があるはずだと。森林を育て、棚田を作り続ける人がいるのは、効率優先の消費社会とは別の次元の時間軸や価値観があるからです。僕も地域の一員として暮らしながら、土地の声を聴けるようになりたいです。

――従来の資本主義や消費社会とは異なる次元の価値観、私もここ数年とても関心がある分野です。

2017年9月号では、水俣で「地元学」を提唱する吉本哲郎さんを取材しました。吉本さんは水俣市役所の元職員です。1994年、行政として初めて水俣病の犠牲者に対して公式に謝罪した水俣市長・吉井正澄氏のもとで、水俣で「もやい直し」や「環境モデル都市」づくりに取り組まれてきたのが吉本さんです。

僕は今まで「経済イコールお金」だと思っていたのですが、吉本さんが語る経済はそうじゃない。貨幣経済だけでなく、物々交換や自給自足、「結(ゆい)」のような地域での協働や助け合いも経済の仕組みのひとつです。「お金とは、つくることの省略」という吉本さんの言葉が印象的でした。

自分の手で作ればお金はいらないけれど、作れないからお金を払う。すなわち、「つくる力」とお金を交換しているわけです。「つくる力」というのは、「ある」ものから何かを生み出す力で、モノだけでなくシステムなども含まれます。「つくる力」を失い、自然や地域とのかかわりが希薄になればなるほど、お金に対する依存度が高まり、身動きがとれなくなってしまう。そこから脱却するには自給力を高めて、自然や地域との関係性を再び築いていくこと。山や海から自然の恵みを得ていけば、お金はけっこう手放せるもので、そのバランスを整えることが大事だと吉本さんはおっしゃっていました。

――諸橋さんが「自分で食べものがつくれるようになりたい」と東京農業大学に進学したことや、山間部に移住して米づくりを始めたことにもつながりますね。

僕自身も東京で生まれ育ち、貨幣経済にどっぷりと浸かって生きてきました。お金に対する依存度を下げるには、「つくる力」や自然を利用する力をもっと養う必要があると実感しています。「つくる力」があれば、お金だけに依存することなく、自分にとって心地よい暮らしを「選ぶ力」もついてきます。

■経済優先で失われた「命」の軸を取り戻したい

――『水俣食べる通信』のこれからの抱負は?

焦らず着実に続けることです。発行する形態は変わっていくかもしれませんが、『水俣食べる通信』はとがり続けようと思っています。それが未来をつくることにつながるからです。熊本地震から1年半、いろいろなことがありました。でも、この期間は決して無駄じゃなかった。必死に取り組んできたことが少しずつ結果として出てきたので、自分を信じられるようになりました。今の僕ならば、「まだ途中だけど、待っていてください」と胸を張って言えます。

今、畑で土づくりをしています。良い土ができるには、時間がかかります。『水俣食べる通信』も同じです。僕は水俣の同世代の人たちと次の水俣を築きたい。「食べる通信」はそのためのひとつの道具であり、人と人とをかきまぜて耕す鍬(くわ)みたいなものです。良い土を作り、可能性の芽を育てることを大事にしたい。一緒に土を耕してくれる読者のみなさんは大切な存在です。土のなかの微生物のようにアクションを起こし、ともに発酵しながら『水俣食べる通信』をつくっていけたらいいですね。

――『水俣食べる通信』でこれからどんな水俣が描かれていくのか楽しみです。

今の世の中は、社会の軸が「命」よりも「経済」に偏りすぎていると思います。水俣病も福島の原発事故も経済優先で、本来ならば最も重視されるべき「命」が後回しにされてしまった現実があります。根本的な問題は、貨幣経済への過度な依存です。僕はそのなかでもう一度、「命」の軸を通したい。「経済」という横軸に対して、「命」という縦軸を通すことで社会のバランスを取り戻すこと。高度経済成長や消費社会がもたらした負のリスクを経験した水俣だからこそ、できることがあるはずです。

水俣病の犠牲となった多くの命が報われるためにも、僕は命の営みや価値を尊重できる暮らしへのシフトを水俣から始めたい。その一歩が「食」を通して、人や自然との関係性をつくっていくことです。『水俣食べる通信』の存在意義もそこにあると思います。水俣の人たちが地元のものを食べて、地域の「食」を支える人とつながり、水俣という土地に誇りを持つこと。地域内で循環する暮らしができれば、貨幣経済だけに依存する必要がなくなり、水俣の新たな未来をつくる選択肢が広がります。僕はその手助けをしていきたいです。

(取材・文 高崎美智子)

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■プロフィール

諸橋賢一(もろはし・けんいち):東京都生まれ。農を愛し、農の力を信じる。東京農業大学卒業後、農薬メーカーに入社。12年勤めたのち、2014年12月に水俣市に移住。水俣病の60年の歴史のなかで公害や風評などに翻弄されながらも「食」と「命」に真摯に向き合う生産者たちに感銘を受け、2015年12月に『水俣食べる通信』を創刊。現在は水俣の中山間部の小さな集落に活動拠点を移し、「農」のある暮らしにシフト。山から海をつなぐ挑戦をしている。