福島県内から2誌目として創刊された『そうま食べる通信』では、共同編集長の一人として、東日本大震災で自らも津波被害に遭った土建会社社長・小幡広宣さん(39)が立った。いわゆる編集のプロは不在ながら、強い相馬愛を持ったパワフルな相馬仲間たちと共に編集チームを結成している。
——土木会社の経営者である小幡さんが、そもそも「食」への意識を高めるようになったのは、やはり震災の影響が大きかったのでしょうか。
原発の事故が、やはり一番大きかったです。子どもたちの被ばくをどう防ぐかというのが重要な課題でしたけれど、あの頃って国の話、県の話、何を信用していいのかわからない状況だったんですよね。だから、2011年6月には自分で30万円ほど出して空間線量の測定器を買いました。教育委員会に「民間で計測することに意味がある」と話を持っていって、だいぶやり合いまして。「相馬遊楽応援団」という震災前から海岸のゴミ拾い活動をしていた団体で、市内の小中学校の校庭で測定をするようになったんです。
間もなくして、食品の線量を定期的に測って発信する活動も始めました。わかったのは、たとえば天然きのこのように明らかに数値が高いとされていたもの以外、問題のある数値はほとんどの食品で出ないということ。その辺りから、食の安全に対する自分なりの考えがうっすら芽生えてきました。農薬にしろ添加物にしろ、危ないものって他にもっとあるじゃないかと。
——その当時の、小幡さんご自身の状況というのは。
うちも津波被害に遭いましたから、2ヵ月間は避難所生活。そのあと仮設住宅に3年半入っていました。そのなかで、被災者ヅラしたくない、自分たちでなんとかしなければ、という思いがあって、いろいろ活動していたんです。原発事故で避難した人たちが連れて行けなかった犬を預かる施設をつくったり。避難所で何もせずにいる人たちに、ガレキ撤去の有償ボランティアをしてもらったり。1年経って、仕事を失った人たちのことを長期スパンで考えなければならないとなったときには、浜で仕事をなくした漁師の家のおばちゃんたちに、アクリルたわしを製造する仕事をつくりました。これは対象こそ少人数ですが今も続いています。
でも、そこで感じたのは、なかなか「ありがとう」とは言ってもらえないということでした。たとえば炊き出しをすれば、「どうして俺はこれだけなんだ」「あっちの仮設住宅はこうだ」と、来るのは苦情だらけです。なぜ、「ありがとう」がないんだろうかと。
そのとき、人からの指摘もあって気づいたのは、自分自身が「してやっている」意識だから不満が生まれるんだな、ということでした。多くの業界の人たちが仕事を失っているなかで、自分がいる建設業界は仕事に困ることなど無かったわけです。自分には人の心配をする余裕があるんだという状況を、まずありがたく思わなくてはならない。そう考えるようになりました。
福島が抱える様々な問題……たとえば原発のこと、そこから派生する人口流出、一次産業の問題などは、どう本気で取り組んだって俺ひとりではどうにもできない。ただ、そういう問題を前にしてみんながいがみ合っている状況を見ていて、いろんな問題の根本には「感謝する心、お互い様の精神」の欠落があるんじゃないか、と気づきました。補償を受けられる人、受けられない人がいがみ合う。相手の立場に立てば、たとえば漁師だって、補償をもらえればそれでいいのかといったら、そうじゃないですよね。補償がいつまで続くかわからない不安もあるし、仕事という生き甲斐を失った現実も変わらないわけですから。でも、どうしても自分中心にしか考えられなくなっているから、不満がぶつかり合う。
じゃあ、その感謝する心、お互い様の精神を植え付けていくには何をどうしたらいいのか。それを思い浮かべられない期間が、2年前の冬くらいまでずっと続きました。
高橋博之さん(『東北食べる通信』編集長)とは、彼が2011年の岩手県知事選に出たときからつき合いが始まりました。縁あって、東北の太平洋沿岸部をひたすら歩く選挙活動に参加したんです。ばかなことする人がいるもんだなあと共感して(笑)。
2013年夏に『東北食べる通信』が創刊され、高橋さんから「福島の漁業の現状を知りたい」と相談を受けました。そこで相馬の漁師を紹介し、菊地基文(現在『そうま食べる通信』で小幡さんと共に編集長を務める漁師)がその年の9月号で特集されることになって、私もどう取り上げられているのかを見てみたくて購読し始めました。
——『そうま食べる通信』創刊は、そこから意識するようになったのですか?
いや、そのときはまったくピンときていませんでした。その半年後くらいに、ネットで食糧難に触れた記事を読んだ頃からですね、これからの時代、「分け合う」が大事なテーマになるという考えが芽生えた。自分のなかに課題意識としてあった「感謝」「お互い様」が、食とリンクし始めたんです。あ、答えは農業だな、と思った。
そこから、『東北食べる通信』で特集されていた白石長利さん(福島県いわき市の農家)に会いに行ったり、菊地将兵くん(震災後に生まれ故郷の相馬に戻って新規就農した農家。『そうま食べる通信』2015年冬号で特集予定)と話し合ったりし始めました。将兵くんとはその後もつき合いが続き何か協力できることはないかとずっと思ったんですよね。農家と建設業って、もともと非常に親密な関係にあった。10年20年くらい前までは、作物が採れない冬のあいだ、農家さんたちに期間労働者として建設会社で働いてもらうことがよくあったんです。
そうやって俺ら建設業だって助けられてきたんだから、農家さんたちが困難に陥っている今、できることがあるんじゃないかと。たとえば俺らが草刈りを担い、それを米という形でいただくのはどうかとか。ただ、同年代の農家さんにいろいろ打診もしたけれど、これという打ち手は見つかりませんでした。相馬で『食べる通信』をできたらいいよな、という思いもないわけではなかったけれど、誰がつくるんだと考えたら、実現可能だとは思えなかったんです。
そうやってずっと考え続けているなかで、2014年秋、飯塚哲生(現在『そうま食べる通信』編集部員の一人である鮮魚仲買人)が「どこよりも相馬がやるべきじゃないか」と言っていると耳にしたんです。「できる!」と思いました。自分以外にもう一人、仲間内に同じこと思っているやつがいるならできると。2015年2月には、高橋さんの『東北食べる通信』の取材に同行させてもらう機会があって、その帰りに『そうま食べる通信』をやるって宣言したんです。退路を断つというか。菊地(基文さん)にもやる気があるとは聞いていたから、じゃあ一度みんなで集まっぺと声をかけ、もう揺るぎない覚悟を持って「やろう」と言ったんです。いやあ感謝とかお互い様とか思い始めて、そこから農業っていうキーワードに辿り着いてそれに関わる手段として『食べる通信』。ここまで辿り着くまでの時間は長かったですねえ。ようやく見つかった!という感じでした。
——共同編集長の菊地基文さんとは、高校の同級生だそうですね。卒業後、ずっとつき合いがあったのですか?
いや、つき合いが深くなったのは震災後です。私は震災前からのゴミ拾い活動をしていて、菊地は「相馬グリーンアーク」という団体でエネルギー関係の活動をするようになって、同じ地域で活動している同級生同士、情報共有したり、プロジェクトを手伝い合ったりするようになりました。俺にも菊地にも「何かしなければ」という気持ちがありましたけれど、あいつの発想力は、すごいんです。だから尊敬もしていました。
ただ、菊地には、創刊の言い出しっぺになるつもりは多分なかった。俺からも編集長やってくれと言ったんですが、無理だと。実際、漁協の青壮年部の会長もやっていたり、全国各地のイベントに出向いたり忙しい人間なんですよ。でも、俺ひとりでは足りないものがいっぱいある。菊地のアイデアは必要でした。それでも、俺が編集長であいつが副編集長という形はないな、と。やっぱり同級生同士ですからね、微妙なバランスがある。だから、ここは対等に共同編集長だと考えたんです。だって自分が単独編集長に就いたら、俺発の『食べる通信』になっちゃう。それ、絶対につまらなくなるから(笑)。
——土建会社の小幡さん、漁師の菊地さん、仲買人の飯塚さんなど地元の仲間8人が集まっての創刊。とても魅力的なチームですが、運営していくうえで苦労も多かったのでは。
うちは、本当に素人集団ですからね。まあ日々不安でした。私自身、『東北食べる通信』で高橋さんが書いている記事を見て、最初は「このくらい書けるんじゃないか」と思っていた(笑)。でも実際書こうとしたら、創刊準備号の段階からもう不安で書けなくなりました。ぱっとしないながらなんとか書き上げたけれど、今度は誌面をデザインする人が決まらない。で、「粗いレイアウトくらいしかできない」と言っていたメンバーの高橋大善にやってもらったら「なかなかいいじゃん!」とか。創刊号では、イラストが必要だね、じゃあ誰が?となって、描いたのは編集部の愛澤の嫁さんですよ。でも、その絵がまたよかったんですよね。
やってることは、結構行き当たりばったりなんです。でも、そういうアイデアというか、「今あるものの中からどう引っ張ってくるか」みたいな能力は高いチームかもしれない。菊地や愛澤、高橋がそのタイプですね。そうやって本当に少ないスキルを掻き集めてつくっています。『食べる通信』もそうだし、仕事でも地域活動でもそう、なんとかなるんです。仕事だって、どうにもならなかったことなんて一度もない。なんとかしているんですよね、自分で。
——『そうま食べる通信』創刊に限らず、小幡さんの活動からは強い相馬愛が伝わってきます。それは、震災を経てより強まっているのでしょうか。
津波の翌日の3月12日、会社の重機を積んで避難所から自宅付近に向かったときに撮った写真がこれです。実際にここに立って、まるで東京大空襲のようだと思った。すべてが流されている。その中で、なんで自分の家だけがぽつんと建っているのか。異様な光景でした。
もともと、信仰心がまったくない人間だったんです。神仏にすがるのは、どこか他力本願な気がしていた。でもこの光景を見たとき、「神様はいる」と思いました。神のような存在の何かから、「お前が動きなさい」というメッセージを聞いたというか、見たというか……。それが震災後の自分の心の拠り所になったのは確かです。
——これからの相馬を、小幡さんとしてはどうしていきたいと考えていますか。
「相馬がよければそれでいい」とはまったく思わない。だから『そうま食べる通信』も、相馬市だけではなく、相双地区(福島県東部の相馬市、南相馬市、双葉町、浪江町などを含む地域)のものだと謳っています。相双のみんながよくなって初めて相馬もよくなるし、相馬がよくなって初めて自分の家もよくなると信じている。「困ったときはお互い様」の気持ちがいろんな枠を超えて広がっていくことが大切で、『食べる通信』はその足がかりになり得ると思うんです。だから、地元にもっと広げていきたい。これは地元の誇りにつながり、誇りを持って住むことにつながるものだと思っています。
——今後も各地から『食べる通信』が立ち上がろうとしています。小幡さんは、その先にどういう日本を思い描きますか。今、なぜ『食べる通信』が必要なのだと思いますか。
今の日本は、依存体質だと思うんですね。食糧はなんやかんやいって他国に依存。国内では行政に依存。こういう依存は、利己的であることと同列にあると思っています。高橋編集長が、「観客席から文句だけ言っていないでグウランドに降りるべきだ」とよく言うじゃないですか。それと同じことだと思います。そして、今のこの依存の精神を正せるのも「食」だと思うんです。人間が生きていくのに切っても切り離せない食べもの。その大切さ、それを生産する人たちの苦労を自ら理解しようとする姿勢が、経済偏重の社会のあり方から、人と人とのつながり、助け合いを大切にする社会のあり方につながっていく。
私自身は、『食べる通信』を創刊して一つの筋道ができたとは感じています。だからって、これを積み重ねていくことだけをイメージしているわけではない。やめるって意味ではないですよ。ただ、やりながら「あ、それもいいね」は見つけるかもしれない。自分はこれまで、目標を掲げてステップを踏んでいくというより、「お互い様」みたいにぼやっとして実体のないものが根底にあって、それだけを軸にそれやろう、これもやろう、という進み方をしてきているんです。だから創刊前、菊地にはよく「何をしようとしているのわからない」と言われました。そりゃそうですよね自分でもわかってないんですから(笑)。でも、とにかく目の前にあることは必死にやってきた。
私は、自分のこういう考えを人に伝えるとき、じゃあ自分自身がそれをちゃんとできているかというと、必ずしもそうではないことも伝えます。できていないからこそ、自戒の意味も込めて口に出す。毎朝、神棚の前では「一人でも多くの人が安心して暮らせますように。今日一日、従業員と家族が怪我なく事故なく安心して暮らせますように。“感謝”の気持ちと“謙虚”な気持ちを忘れずに一日生活できるように……」と言って手を合わせるんですが、それだってできていないから毎日言うんです。なんだろう、酒飲むと忘れてしまうのかな(笑)。
(文・保田さえ子)
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■プロフィール
小幡広宣(こわた・ひろのぶ)●1976年、福島県相馬市生まれ。30歳で「広栄土木」を開業。2014年9月株式会社設立。本業のかたわら、震災前から海岸清掃のボランティア団体を立ち上げるなど地域活動にも力を注いできた。2011年3月、東日本大震災に遭う。2015年10月、地域の仲間たちと『そうま食べる通信』を創刊し、漁師・菊地基文さんと共に編集長に就任。