“地方”をひとくくりとした東北、四国の2誌に続き、“市町村”というより小さな区域から発刊されたのが『東松島食べる通信』だ。創刊者は、東日本大震災を機に前職を辞め、宮城県東松島市へ移住した太田将司さん(42)。視線の先は大都市圏の消費者にはなく、「地元のため、地元に向けて」の編集姿勢を貫いている。
——太田さんは、勤務していた都内のインテリアショップを辞めて、震災直後の宮城県東松島市に移住していますよね。どんな経緯からですか?
あの震災のときは、リノベーションの仕事をしていた古いビルの最上階で会議中でした。非常階段が1mくらい横揺れして、非常に怖かった。テレビでは波が渦巻いている。JRの駅のシャッターが閉まって入れない。その状況にショックを受けました。それまでボランティアや義援金などには懐疑的なほうでしたが、こればかりはやらないと今の日本にとって良くないと、少しばかりの正義感が芽生えて。8月末、人づてに東松島市の夏祭りを手伝いに行きました。
祭は楽しく、活気があって、朝から晩まで働いて「いいことしたなあ」という高揚感に浸れました。その次の日、いろいろ見ながら帰ろうと県南部の沿岸で車を走らせたんです。そこで、ぼろぼろの家がいまだに放置されている状況に触れて、怖くなった。そして自分のいやしさみたいなものに気づかされました。写真撮って帰ろうという意識でいた自分にムカついた。復旧が早い、遅いではない。自分はなめていたと思い知らされました。
日常に戻ってもイライラしかなく、でも誰にも言えず、頭にきて「1年住もう」と決めたんです。1年住めば右か左かくらいはわかるようになるだろう、自分のためにもなるだろう、イライラも治まるだろうと。自分自身の納得感のために、会社を辞めて11月9日に移住しました。会社からはあきれられましたけれどね。そのくらいムカついていました。
——東松島に行こうと決めた時点で、何をするのかは決めていたのですか?
いや、「住む」ことだけです。あとはボランティアはしない、やるのは「仕事」だと決めていました。地元の人が必要とすることをやろうと。それで食えなければアルバイトでも何でもすればいいという気持ちでした。町で亡くなった方が千人であろうが、1万人であろうが、自分は「プラス1」でしかあり得ない。プラス1として必要だと思ってもらえれば、自分はサポートし続けるし、居続けられるはずだと思っていました。僕は、やりたいことだったり目指すものだったりに向かう「エンジン」は、誰にでもあると思っている。それを実現するための「燃料」に、自分がなろうと思ったんです。
——移住して、具体的にどんな活動から始めましたか?
夏祭りで世話になったちゃんこ屋の主人に「海苔うどんっていうのがあるんだけれど、アドバイスしてよ」と頼まれたのが始まりです。そこで初めて、ここの特産品が海苔だと知った。じゃあ、被災した海苔漁師たちは今、どうしているんだという話になり、大曲浜(おおまがりはま)という地域の相澤太(あいざわ・ふとし)という漁師に会いました。2時間くらいかなあ、津波の話ではなく、海苔の話をした。そこに興味があった。2日後には初めて船に乗せてもらい、そこから1週間ずっと乗り続けました。そうしたら浜の漁師たちが興味を持って、逆に質問攻めにされた(笑)。
大曲浜は、品評会で優勝、準優勝して皇室に献上される海苔の産地として知られていました。その「皇室御献上の浜」のウェブサイトがつくりかけになっているから相談に乗ってくれと、ある漁師に頼まれたんです。見たら被災地一色の内容。辛気くさい、面白くないよとはっきり言いました。「俺は今、この浜に毎日通って来ていて面白い。だから、みんながここで普通にやっていることを、そのまま見せればいいじゃん」と言って、全面的につくり替えをした。それが最初ですね。
——当時の浜はどんな状況だったのですか?海苔の養殖再開に向かっていた段階ですか?
通っているうちにわかったのは、養殖再開のための補助金は出るけれど、修繕費の補助は出ないということ。皆で共有する倉庫が壊れているんだけれど、それすら直せない。そこで考えて、漁師たちに「サポーターズクラブ」をつくる提案をしたんです。サポーターたちとは、「モノ」ではなく「コト」を介そうと。僕自身、ここで船に乗せてもらってすごく楽しい。だから来てくれた人たちを船に乗せてあげよう、それだけでも充分価値があるんだと伝えました。このサポーターズクラブを立ち上げて集まったお金で、倉庫を直し、漁師たちが集うプレハブも建てることができました。現在も会員が250人くらいいます。
そうやって大曲浜の海苔漁師たちとのつながりが深くなっていって、海苔加工工房を立ち上げるサポートを依頼されたりして。2012年1月からは、「東松島あんてなしょっぷ まちんど」を手伝うようになって、町の生産者たちの元を回るようになっていきました。
——「まちんど」は、『東松島食べる通信』の発行元ですね。そもそも『食べる通信』との縁はどこから始まったのですか?
2013年7月、『東北食べる通信』の高橋博之編集長が、ふー(相澤太さん)を取材したいと訪ねて来たときに同席しました。取材されることは浜のブランド価値を上げることにつながるから、僕もどうぞどうぞって。何度か取材に通ってこられるうちに、「ここで生産者の元を回っている太田さんも『食べる通信』をやったらどうか」と誘われたけれど、僕はいらないと思いました。僕らには僕らのペースがある。当時の僕がやっていたのは、生産者全体の基礎体力を上げるような活動でしたから。自分がやりたいことをはっきり伝えられるようにしようとか、外から人を迎えられる仕事場にしようとか、そんなことです。
——要は、生産者にダメ出しをしていた(笑)。みんな、受け入れてくれましたか?
いや、そこは本人次第でいいんです。でも、自分はこう思うと率直に伝えていました。それを受け入れてもらえたのは、やっぱり「住んでいた」ことでつくれた関係性が大きかったと思います。特に大曲浜の漁師たちとは、ほぼ毎日一緒にいましたから。
——その後、当初は興味のなかった『食べる通信』を創刊するまでには、どんな経緯が?
ふーが特集された『東北食べる通信』を見たのが大きかった。ふーの仕事、人となりがつぶさに描かれていてすごくいいなあと。何より、ふーがうれしそうな様子がわかるんですよ、仲いいから。テンションが上がって、レベルアップして、これはいいなあと。
そして「まちんど」のスタッフたちにも冊子を見せた。そうしたら「感動した」「もっと一生懸命、ふーちゃんの海苔を売りたくなった」と言うんです。それを聞いた瞬間、これは町のためになるものだと。やる!と決めた。これを町のみんなと一緒につくろうと。
——相澤さんが特集された『東北食べる通信』は、主に首都圏の読者に向けた媒体です。『東松島食べる通信』はどうですか?
創刊に向けて高橋さんたちとやり取りを重ね、コンセプトを詰めていくうちに、うちのテーマは「人」だ、これで町おこしをできると思いました。もともと地元が地元をもっと知るべきだという考えがあったから、うちは地元の生産者を特集し、地元向けにつくろうと。
——例えば「二重プライス」は、地元に向けた『東松島食べる通信』ならではの仕組みですね。東松島市内の読者は、冊子と特集された食材を「まちんど」で直接受け取れる。送料がかからない分、購読料が安い。これはご自身の発案ですか?
そうです。僕は田舎に来て、田舎のつき合い方を知り、手から手に物が渡る関係がすごくいいと思った。東京での僕の商売とはまったく違いました。手から手に届けば、言葉が生まれ、会話が生まれる。そこから学べることもある。田舎のよさだと思いました。
——地元に向けて発信するよさとして、他にはどんなことがありましたか?
僕よりも長く住んでいる人たちの価値観を変えられるということです。この町の生産者には、歯がゆさがある。でも、その話を聞き、伝える人がいると、局面が一気に変わる。ここでは1万人5万人に向けて話すより、10人1000人に向けた方が伝わります。5人の仲間ができ、その一人ひとりが伝え手になっていけば、僕ひとりなんかの影響力を軽く越えていきます。
人は頑張ったってどうせ死ぬのなら、ただ惜しまれて死ぬのではなく、継がれるものを残したい。僕は「東松島という名前を残そうぜ。いつまで被災地って呼ばれているんだ」と言っているんです。この冊子を編集しているのは僕ですが、それはひとつの役割。宣伝する人、協力する人がまわりから出てきます。それは、特集される生産者が「うちの町の人」だからです。僕は、町の人たちが笑顔で自慢できるものがある、そういう町にしたい。
子どもたちも楽しそうですよ。うちには「東松島食べちゃう!通信」という、子どもが生産現場を取材する企画がありますが、みんなこれをやりたがるんです。家に帰って「次のいちご特集、何しよう」と企画を練っているらしい。こうなればもう『食べる通信』は関係なく、町そのものが楽しくなる。町にかっこいい大人がいたり、誇りや楽しさがあったりすれば、子どもたちは町を出ていかなくなりますよね。
——創刊して、太田さん自身がよかったと感じていることは何ですか?
町のみんなが喜んでくれていることです。うちの読者は、比較的現地を訪ねて来てくれますしね。飲み会を開いたら5人くらいの生産者は確実に集まりますよ。読者の人たちも「初めて来た気がしない」と言います。僕が普段からFacebookで発信している、そのまんまのコミュニティがあるから、「見たことある人に会える」感覚なんでしょうね。
——太田さんは今、日本各地の『食べる通信』編集長が属する「日本食べる通信リーグ」の一員として、新規に『食べる通信』の創刊を希望する人たちを審査する立ち場にもあります。時に厳しい意見をおっしゃるそうですね。
いや、厳しくはないと思う。ただ「面白くない」とはよく言います。やりたいのは『食べる通信』なのか。誰に向けて何をしたいのか。意図が伝わってこないことが多い。
面白くないという意見は、審査するリーグ側に対して言うこともあります。仮に、僕がこれから『東松島食べる通信』を創刊しようとして審査にかけられる立場になったら、「あなた実績何もないでしょ」と手厳しくチェックされる気がする(笑)。僕は、基本的に「創刊したい人はみんなすればいい。どんどんやってください」のスタンスなんです。いざ創刊したら、続けていくのは大変なことですが、そこはアメリカの大学みたいなもので、自己責任。入学試験を厳しくしてもしょうがないと思っています。
——新規に創刊を希望する人たちには、どんなアドバイスをしていますか?
「絶対にめげるよ。だから、なぜ自分は『食べる通信』をやるのかの根本を持っておくべきだ」ということです。自分自身を納得させられる断固たる意志がないと、必ずぶれます。それがないのなら、やめたほうがいい。
——今も各地から創刊希望者が相次いでいます。創刊が全国に広がっていった先に、どんな姿があることを太田さんは望んでいますか?
おしゃれなパッチワークかな。それぞれがそれぞれの風呂敷を広げ、縫い合わせていった先にできる世界。うちはたまたま、小さい町に小さい風呂敷を広げて楽しくやっていますが、それが絶対ではない。大きい風呂敷、いろんな風呂敷があっていいと思うんです。
——最後に、太田さんご自身と『東松島食べる通信』のビジョンを教えてください。
地元から「編集長をやりたい」という人が出てきてほしい。以前、地元の小学校に、編集長として授業に行ったことがあるんですが、送られてきた感想文の中に、「もっと地元に詳しくなって、太田先生に教えてあげられるようになりたい」という声があった。あれはうれしかったなあ。そういう子にはすぐあげちゃいます、編集長(笑)。
(文・保田さえ子)
■プロフィール
太田将司(おおた・まさし)●1973年、千葉県生まれ。宮城県東松島市在住。インテリアショップ「アクタス」勤務などを経て、2011年11月に東松島市へ移住。12年1月より「東松島あんてなしょっぷ まちんど」勤務。14年8月『東松島食べる通信』創刊。
※『東松島食べる通信』は、2018年8月号をもって休刊しています。
このインタビューは2016年3月2日に掲載したものです。