死に向き合う


死に向き合う

夢や希望という名のもと、未来のために、「今」を犠牲にする。これが、成長の思想です。逆に言えば、「今」が最も充実していると感じられれば、夢も希望も声高に求める必要はなく、成長という概念は意味をなさなくなります。その先にある世界は、他者や自然を収奪しない世界。人類の生存を脅かす気候変動や、テロの温床となる固定された格差といった世界的問題を解決していく唯一の道だと、僕は思っています。その理由について、先日、青山の自由大学で開催した第67回くるまざ座談会で話してきました。

養老孟司さんが話していた面白いエピソードがあります。養老さんは東大の医学部を卒業し、そのまま東大の医学部で解剖学を教えていました。60歳のとき、突然、大学を退職。驚いた同僚の先生が、「辞めてどうするんですか?」と尋ねると、こんなやりとりが展開されます。「なんにも決めていません(養老さん)」→「よくそれで不安になりませんね(同僚)」→「先生は自分がいつ死ぬかわかってますか(養老さん)」→「そんなことわかるわけないじゃないですか(同僚)」→「よくそれで不安になりませんね(養老さん)」。

このエピソード、今の日本社会を実によく映し出していると思います。仕事は失ってもまた探せばいい。でも、命は失ったら取り戻せません。なのに、ぼくらは日頃、前者のことばかりに気をもみ、生死について何も考えていない。果たして、どちらが幸福で自由な生き方になるでしょうか。

食についても同じことが言えます。1日3食を365日、80年間続けると、人間が生涯でする食事の回数は、だいたい8万7千回です。この食事をどう過ごすか。一回一回の差は大したことはありませんが、何万回となれば、微差の積み重ねで最後に大きな差が生まれます。ぼくらは日頃、好きなものだけたらふく食べています。で、最後、生活習慣病になり、医療費を払った挙句に、病院でスパゲティ症候群みたいな悲惨な終わりかたをする人も少なくありません。仮に生涯で同じお金を払うんだったら、日頃、体によい食事をとることにお金をかけた方が、健康寿命も伸び、気心知れた人たちに囲まれ穏やかな終末を迎えることができるわけで、こっちの方がより幸福で自由と言えるのではないでしょうか。いかに、ぼくらが日頃、生死について何も考えていないか、ということの表れです。

豊かになった日本は、世界で一番、日常生活の中における「死」から遠ざかった国と言えます。これまでは平和でしたから、戦争に行って戦死して帰ってくる人は戦後ひとりもいませんでした。医療も世界最先端のレベルに発達し、国民皆保険制度もあるので、ほとんどの人は病気が早期発見されると、治りました。赤ん坊が生まれる、お年寄りが死ぬ、昔は家でやっていましたが、今は、99%以上が病院や施設です。つまり、ぼくらが暮らしている日常生活の中で、「死」を感じたり、考えたりする場面がないのです。もちろん、これは幸せなことです。しかし、「死」から遠ざかった結果、ぼくらはまるで締め切りのない人生を漫然と歩かされているかのように、精気を失った顔をし、生きる実感がわかない、生きる意味を見出せないと、ぼやいています。

逆説的ですが、「死」と隣り合わせの「生」は、自ら光り輝こうとします。終わりを常に意識するので、今ある「生」を大切に生きます。余命宣告された人やその家族は、生き方が変わるとよく言われますが、それも同じことだと思います。死という際限を意識した人は、未来のために「今」を犠牲にするような生き方はしません。日本は、リアルな「死」から遠ざかり、さらに自然を排除した都市生活、インターネットの普及による情報化社会の到来で、ますますこの際限がなくなっています。そもそも、今は貧しくとも、がんばって働けば輝ける未来がやってくると信じ、家族や友人と過ごす時間、趣味の時間、健康を犠牲にし、寝ないで働くという生き方は、衣食住が不足する途上国モデルです。際限がある世界から際限がない世界に向かっていく道です。

「今」をより充実させる生き方は、当然のことながら「今」を犠牲にしません。そして、常に拡張する成長モデルとは違い、他者や自然も犠牲にしない。日本は、欲求、そして欲望を満たし、これまでの広げる生き方に飽き始めている人々が生まれています。特に若者がそうです。夢や希望より、「今」というリアリティを充実させる暮らしを求めているように感じます。その方向は、世界をよりよく変える方向に向いています。大事なことは、「べき論」ではなく、自ら選んだ意思として、その方向を歩み始めているように見えることです。若者たちは、概念ではなく、体や直感でこの変化を欲しています。大量消費文明社会の先頭を走ってきた国がこの際限を意識する生き方に変わるということが、文明の方向を変える端緒になるとぼくは思います。人類が直面している問題の根っこには、地球がひとつであり、エネルギーも資源も食料も限りがあるというまさに際限の問題だからです。

今日、たまたま見つけましたが、まったく同じことを言っている人がいました。ビートたけしです。(http://cadot.jp/impression/14296.html/2)。ウルグイアのムヒカ元大統領も言ってますね。ただ、ムヒカもたけしも、そのためにどうすればいいかまでの具体的処方箋までは示せずにいます。ぼくは、みんなの話を聞きながら、そこを具体的に示していきたいと思っています。鍵は、崩壊したリアリティの再生であり、自然とつながる回路をどうこのバーチャルな社会に取り戻し、共存させるかであり、さらに言えば、ひっくり返えす革命ではなく、静かに浸潤する上書き保存だと思っています。その突破口は、誰にとっても身近な「食」にあります。

東日本大震災は、このことをぼくらに教えてくれた出来事だったとぼくは思います。