会社を説得して創刊。 継続していくことで、どんどん価値はふくらんでいく −−『ひろしま食べる通信』編集長・梶谷剛彦

自身が勤める印刷会社が模索する新たな取り組みとして、『ひろしま食べる通信』創刊へと踏み出した梶谷剛彦さん(42)。「真逆のタイプ」と言いながらも尊敬すべき柑橘農家の父を持つ梶谷さんが、自らの道として広島の生産現場を歩き始め、感じ取っていることとは。

■農家に生まれた自分が歩んできた道に意味を感じた

——創刊は2016年7月。そもそも「食べる通信」をお知りになったのはどういう経緯でしたか。

2015年の年末、『東北食べる通信』の取り組みを紹介する記事を見たのが最初です。私が所属している中本本店は印刷会社ですが、今の印刷業界ではどこの会社も常に新しい方向性を模索しています。私自身、企画やデザインを担う部署の責任者という立場で、先頭に立って新規事業を生み出さなければならなかった。いろいろな形で情報収集していたなかで引っかかったのが「食べる通信」でした。

——それまでのお仕事で、食との接点はあったのですか。

いえ、ほとんどありませんし、私自身、正直なところ、食に対するこだわりは希薄なほうでした。「食べる通信」は食材をお届けするという面ももちろんありますが、あくまで中心は生産者の歴史だったり、思いだったりを伝える情報誌。私たちの仕事は紙に慣れ親しんでいるので、そこに親和感がありました。つまり「紙」での表現に惹かれたんです。

調べていくと、日本中で(創刊希望者を)探していることがわかったので、日本食べる通信リーグに問い合わせをして、まず担当の方にお会いしました。そして後日、東京で高橋博之さん(『東北食べる通信』編集長・日本食べる通信リーグ代表)の車座座談会に臨んだんです。その思いに非常に共感しました。

——梶谷さんの心を動かしたものは何だったのですか。

今思えばという部分もありますが、私の親は愛媛のみかん農家で、田舎育ちなんです。家を継げと言われることもなく故郷を出て、ずっと広島市で生活してきたわけですが、そのなかで私自身が生産者から離れ、つながりが希薄になって今に至っていた。博之さんの言う生産者と消費者の分断という問題が、自分のなかにも確かにあったと実感して、そこをつないでいく、結んでいくという取り組みが、これからは必要なのではないかと。私個人としても、自分自身が歩んできた道の意味というか……農家を継がずに都会に出てきて、今、世の中に情報を伝える仕事をしている。そこにつながりを感じて、これはもう、やるしかないと。

——決断が早いですね。

せっかちなので(笑)。そこから2ヵ月後に加盟審査があると聞いたものの、その時点で私たちには生産者とのつながりがありませんでした。うちの社員などいろいろなつてをたどるうちに、世羅高原農場の吉宗誠也さん(創刊号で特集)にお会いできることになって、そのときに奥さんの吉宗五十鈴さん(『ひろしま食べる通信』副編集長)に出会いました。五十鈴さんは、当時からいわゆる地域のプレイヤーで、地域の方たちとのつながりがありました。『東北食べる通信』を購読していて「広島で創刊するなら私も編集に関わりたい」と言われ、願ってもないことだと加わってもらうことに決めたんです。そこからは五十鈴さんの紹介もあって、生産者との出会いが広がっていきました。

私は初め「食べる通信」を単体のビジネスとして成り立たせるには難しい面が多いと感じていました。でも実際に動いていくなかで、今までに得られなかった関係が生まれていくことに魅力を感じたんです。弊社は基本的に受注産業で、お客さまの「このようなものをつくりたい」というニーズに対して「これはどうですか」と提案する。これまではそのようなつながりがほとんどでした。でも「食べる通信」では、私たちが発信していくことに対して興味を持ってもらい、会社そのものに興味を持ってもらうという新たなつながりが生まれます。そのつながりは、今後、会社にとって必要だと会社を説得して、2016年3月の審査に臨んだわけです。

——単体のビジネスとして難しいにも関わらず、会社を説得できたのは、梶谷さんが見出したその価値に賛同を得られたということでしょうか。

印刷会社は今、どこも新たな方向性を模索していると言いましたけれど、何もできずに終わることのほうが多い。そこに今までにない視点を持ってきて私が熱く語るものだから、「やってみればいい」と。あの時点で、「つくる人と食べる人をつなぐ」という根本の理念まで理解している人は少数だったかもしれません。でも、少数ですが、そこを理解して応援してくれる人がいたからこそ実現できました。

いざ始めるとなって、うちの社長から言われたのは「始めるからには、簡単にやめられない」。この地域の企業として、続ける価値のある取り組みだとわかってくれていたのだと思います。

■親父は地に足をつけて積み重ねていく。私は……

——梶谷さんは、みかん農家という家業をどうとらえて育ってこられたのでしょうか。

小中学校時代は、休みの日の午前中に手伝いをしていたんですよ。それが嫌でしたね。農家の子以外は手伝いなんてしませんから、なんで俺だけ?と。春は剪定作業があって、剪定した枝を私が集める。集めて、焼いて、焼き芋焼いて(笑)。収穫の季節は、親が収穫して私がモノレールに運んで移動させる。急傾斜のモノレールに乗って、みかんを食べて、乗っては降りてという作業は好きでしたね。みかんは山で食べるのが一番おいしいですよ。

——そういう環境で育つなかで、自分もゆくゆくはこの仕事に就くんだという気持ちにはなりませんでしたか。

一度もなりませんでした。大人になったら「スーツを着て仕事をする」という短絡的な考えだけでした(笑)。大学進学と同時に家を出て、広島に就職して、親にも何も言われませんでしたし、継ごうと思ったことはありませんでした。今なら少しくらいイメージしないわけではないですけどね。

——生産現場とつながるお仕事をするようになって、ご自身の家業の見方に変化はありましたか。

これは創刊より前ですが、30代になって、社会人としてある程度の立場になったとき、父のすごさを感じるようになりました。父はどちらかというとビジネス的な感覚の鋭い生産者なんですよ。今の山はほぼ父の代で築いていますし、愛媛のみかんがまだ弱かった時代に「清見タンゴール」という品種を地域に根づかせてブランド化した立役者の一人でもある。周辺の農家と比べて、父のつくるものは高く買われている。仮に生産者ではなかったとしても上の立場に立てる人だと思いますし、自分が管理職になってみてあらためて尊敬しています。この2、3年、私自身が生産現場を回るようになって、父の言うことにより納得できるようにもなりました。「あ、この人も父と同じことを言っているな」とか。

父は地に足をつけて積み重ねていく人で、だからこそ築くことができた今があります。私は地に足がついていないにも関わらず「やっちゃう」(笑)。だからもし私が継ぐとなったら、ぶつかるでしょうね。私は、まずつくるという土台を確立させないまま「やっちゃう」だけの生産者にはなりたくない。でもなかには、土台を親が築いてくれているからこそ今があるのだという自覚のないまま「やっちゃっている」人もいて。私はそれが嫌なのですが、私の性格だと、きっとそうなってしまうでしょうね。

——そうわかっていれば、ならないのでは(笑)。

いや、私は本当の意味ではわかっていないと思います。下積みの経験がありませんから。父は昔、みかんを軽トラいっぱいに積んで、親戚がいた(大分県)別府まで渡って、売り歩いていたんです。売る大変さも、もちろんつくる大変さもわかっている。

——確かに、今の60代70代の方たちの時代背景と比べると、その子の世代ではインターネットが普及したり、六次産業化という動きが出てきたりで、「やっちゃう」手法は多様化していますね。

それが時代のニーズでもあるから、周りもちやほやする。ある意味仕方のないことではあります。だからこそ、若いのにちゃんと地に足をつけようという姿勢の人は、すごく魅力的に映ります。私はそんな生産者を取材していきたい。

■継続しているからこそ生まれてくるものがある

——現在『ひろしま食べる通信』の会員数はどのくらいですか。

約350人で、創刊からあまり変わっていませんね。何がなんでも増やそうとは思いません。それよりも考えるべきは、いかに付加価値を生み出して、つないでいくか。「食べる通信」に関していえば、本当にシンプルに、まずは継続していくことだと思っています。継続していくことで、どんどん価値がふくらんでいく。だから、外からも、会社の中からも、続けていくべきと言ってもらえるだけの価値を与え続けなければいけない。継続していければ、おのずと結果はついてくると思っています。

——他地域の「食べる通信」のなかには、その継続の部分に課題を抱えているところも少なくないと思います。広島では、継続していく上で何が大切だと考えていますか。

改善できるところはまだまだありますが、欠かせないのは私たちのモチベーションです。この取り組みに何の意味があるのかをそれぞれのメンバーが、それぞれに考える。そして今までとはまた違う人たちを……それは対人でも、対企業でもそうですが、どうからませるのかも大事だと思います。それが刺激になって、現場のモチベーションも変わってくるでしょうし。

今、中心となっている制作メンバーも、徐々に活動を広げています。特に積極的に外へ発信してくれているメンバーですね。例えば吉宗さんは、今年5月から「雪月風花 福智院」という宿坊を再生したお茶などが楽しめるお店を始めて、随所に「食べる通信」ともからんでいたり。レシピ担当の瀬川恵理子さんは専門学校で講師を始められたり。フィールドが広がっていますね。

——では、梶谷さんご自身は、この取り組みにどんな楽しみを見出していますか。

「知る」ということがすごく楽しい。どの食材だろうと新しい発見があるし、地域にも発見がある。取材や編集という仕事において、知ることは財産だなあと思います。それも、その道の専門家から学べるんですから。なんていい仕事なんだ(笑)。

また、うちでは特集する食材と生産者のイメージによって冊子の紙を変えています。例えば海系のテーマによく使うのが、白くて発色が強めの紙。色が沈むタイプの紙を使うと海の青さが暗く出るのですが、それをさわやかに表現したいときがあるので。年に一度、表紙のコンセプトとブランドロゴも変えています。いつも同じものが届くと感じられないよう変化していきたい。それが私たちのモチベーションにもなりますから。

——ちなみに2018年7月からの3年目は、どのように変えたのですか。

2年目は全面写真で食材の強さを表現していて、毎回表紙用に撮影していました。3年目は表紙用に狙って撮影するのではなく、生産現場でカメラマンが撮影したすべての写真からベストを選ぼうと。今まで表紙に登場しなかった「人」が出ることもあるでしょうね。読む人にどこまで伝わるかわかりませんが、私たちの勝手なこだわりです(笑)。

——チームのモチベーションアップにつながる施策を、自ら上手に仕掛けていらっしゃいますね。よくあるのが、自分たち自身が飽きることがないよう、チームのメンバーを変えるという手法だと思いますが、それをすることなく。

継続しているからこそ生まれてくるものがあると私は思っていて、メンバーもそうです。今の6人はもちろんスタッフですが「仲間」というか。仲間って入れ替えるものではないですよね。だからこそ、気持ちよく取り組んでもらうために配慮は必要ですし、かといって必要以上にへりくだるわけではなく、ときには私の決定を飲んでもらうこともある。それが仲間なのかなと思います。

今のメンバーは40代から50代の同世代で、それぞれの経歴、それぞれのフィールドを築いた上で、今、関わっている。いい関係だと思っています。最近、よく話すんですよ。「これ、10年後もやっとるんかね、俺ら。やっていたらすごいよね」って(笑)。

——10年後を語れるというのは、すばらしいですね。

10年後ならまだ語れますけど、20年後までいったらもう70近いですから「俺ら、頑固じじいの極みだろうね」と(笑)。

■自分を出していかなければ伝わらない。そこが学び

——日本食べる通信リーグに属していて、他の編集部、他の編集長から刺激を受けたり、学んだりすることはありますか。

これはリーグ会議でも発言したのですが、編集長のパーソナリティが強い編集部はいいなあと。『東北食べる通信』の博之さんしかり、カリスマやアイドル性のある編集長がいる編集部はうらやましいです。「食べる通信」は編集長のパーソナリティが一番の強みだと思うので。私がそれを持つことは、まずないのですが。

——いえ、だいぶ個性を出していらっしゃるかと(笑)。

いや、それは身内のなかでのことで、外に向けてそれを表現できるのが、本当の意味でのパーソナリティだと思います。私は一企業のサラリーマンで、あくまでビジネスのなかで回っている人間。そこが違います。『ひろしま』の場合、副編集長の吉宗さん、レシピ担当の瀬川さんなど、それぞれの分野でとても人気の高い方がメンバーとして加わっている。そのおかげで創刊時からある程度の購読者が集まったと思いますし、もしも中本本店という企業だけで立ち上げていたら、もっと企業イメージが強調されて厳しかっただろうと思います。

——梶谷さんご自身も相当おもしろいとは思いますが、その個をどれだけ立たせていくかの心がけの違い。そういうことでしょうか。

そうとも言えるかもしれません。例えば、博之さんはよく信念のような言葉を語ります。私にも同じような思いはある。でも一方で「とはいってもね……」と客観的になる部分があるんです。多分、博之さんのなかにもその「一方」はある。ありながらも、その信念の部分だけを前に押し出せるというのは、すごいスキルだと思うんですよ。私にはそれがありません。「とはいってもね……」と保険を掛けちゃう。

——高橋さんは「きれいごとを言い続ける」と、よくおっしゃっていますね。

そうそう、それです。きれいごとを言い続けるって、すごいことですよね。普通は一歩引いた目線で考えてしまって、それができない。だからこそ、博之さんの言葉に惹かれるんです。私は自分のことを表現するのは苦手なほうですが、そこを多少なりとも出していかないと相手には伝わらないんだということを、すごく学ばせていただいています。なかなか恥ずかしくて出せませんが。

『ひろしま食べる通信』では、編集後記だけは毎号必ず私が書いています。第2号で特集した山本さんという農家が「一番初めに編集後記を読む」とおっしゃるんですよ。その編集後記が少しずつ変わってきているんですって。それを見るのが一番楽しみだと。うれしいですね。ハードルが上がったみたいでプレッシャーも感じますけれど(笑)。

■じいちゃんのみかんに幸せを感じる

——創刊されて以降、ご家族はどのようにおっしゃっていますか。

私が食べるものにうるさくなったと(笑)。でも、知るということはそういうことですよね。購読する方たちにも変化を求めているわけですから、私がそうなるのも当然だろうと思います。

家族のなかでは一番下の小学4年生の女の子の感覚が、いろんな意味で参考になります。例えば新しい生産者に会って何かいただいて帰ったとしたら、感想を必ず聞いてみる。その子が満足したら、ああ、これはいいものなんだなあと感じます。たまにすごくいいことを言ってくれるんですよ。あるとき「私はお菓子とかおいしいものを食べるときはただおいしいだけだけど、じいちゃんのみかんを食べているときだけが、幸せを感じる」って突然言ってきて、わあ、そうですか!と(笑)。なんていいことを言うんだろうと。

先日母が亡くなりまして、家族そろって一緒に過ごす時間が10日ほどあったんです。そのとき私が持っていたのが、柑橘を特集した号。それまで父とは「食べる通信」についてちゃんと話していなかったんですよ。加盟審査のプレゼンの前日に電話はしたのですが。「親父のことも話すし、知っといてや」と。でも「何言っとるんかわからんかった」と(笑)。それで改めて話をしてその号を渡したら、父はうれしそうに他の人に話していましたよ。「わしも同じことやっとるけえ、この子(生産者)の大変さがわかる」と。

——素敵なお父さんですね。いずれ愛媛で創刊されたら、お父さんのことを特集してほしいです。

うちは個人宅配のようなことは難しい。今までは、私たち兄弟や周りの人が求めれば個別に送ってくれたのですが、それをやっていたのは母だったんです。その母がいなくなって、父はもうお断りしたいと。父のみかんを一度食べたら、またほしいと言ってくれる人が結構多いんです。でも、もうできなくなりますね。

親が柑橘農家をしていてよかったと一番実感するのは、10月から3月までいろんなみかんが順々に、途切れることなく届くとき。途切れたら電話するんですけれど(笑)。温州が来て、ポンカンが来て、あれが来て、あれが来て、そろそろはるみじゃない?みたいに。今回母がああいうことになって、いつかは父のみかんが届くこともなくなると思うと、さびしいだろうなあと思いますね。

——今、農業も漁業も生産する人が急速に減っています。つくる人がいなくなるということは、その先で楽しみにしている人たちの食卓が変わるということでもあるのですね。

そういうことです。ただ私は継がないことを決めている。その理由は、今の仕事が好きだから。そこが一番です。

——いつか、ということはありませんか。「生産者になりました。だから編集長をやめます!」とか。

それ、めちゃくちゃ格好いいですけれどね(笑)。私は誰かに『みかん食べる通信』をやってほしいなあと思っているんですよ。年間を通して柑橘が届く「食べる通信」。きっとできるはずです。

(文・保田さえ子、写真・前田憲明/吉宗五十鈴)

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■プロフィール

梶谷剛彦(かじたに・たかひこ)●1975年、愛媛県生まれ。2000年、株式会社中本本店(広島市中区)入社。同社プランニング部部長を務めながら、新規プロジェクトとして2016年7月に『ひろしま食べる通信』を創刊。編集長として自ら生産現場へ足を運び、商品発送のオペレーションまでをこなす。