「食」に可能性を感じた3つの理由と(株)四国食べる通信が手掛ける横展開とは?−−『四国食べる通信』編集長・ポン真鍋

2014年、『東北食べる通信』に次ぐ2番目の食べる通信として『四国食べる通信』を立ち上げたポン真鍋さん(37)。東京大学・大学院を卒業後、リーマン・ブラザーズ証券に勤め、帰郷して同誌を創刊した異色の経歴を持つ一人だ。現在は四国を駆け回るポンさん、その背景にはどんな思いがあるのか。また、(株)四国食べる通信の運営秘話も語ってくれた。

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■地域を伝えるための「食」というツール

——ポンさんが地域や地方に目を向けたのは、いつ頃だったのですか。

きっかけは2008年、リーマン・ブラザーズ証券の経営破綻ですね。今の僕しか知らない人は驚くかもしれませんが、僕はそれまで毎日スーツを着て、約3年半六本木ヒルズに勤めていたんです。

経営破綻後、香川県の実家に1ヵ月ほど戻る機会がありました。当時はメディアで「地方は疲弊している」などとよくいわれていたのですが、里帰りではなく十数年ぶりに実家で“暮らす”という経験をし、個々人の生活を見つめてみたら、それは嘘だなと実感しました。都会の人よりもずっと笑顔が多く、疲弊しているようにはまったく見えなかったんです。

その後、アメリカのマイナーリーグでのインターンなどを経て、再び証券会社に就職したのですが、そこを2012年1月31日に退職し、香川県へ戻ることを決めました。

地元に戻って、地域での活動を生業にしようとしたとき、考えたんですよ。「地域の人にとっては、僕なんかどこの馬の骨かわからない。けれど、それでも僕自身を信頼してもらうしかない。自分がなぜここに立っていて、何を課題として、どこに向かっているかを常に示していく必要がある」。そこで、自分のことを伝えるために、退職翌日の2月1日からFacebookで毎朝「ポン真鍋新聞」というコラムを投稿し始めたんです。以来、毎日書いています。

生まれ育った高松市に戻ったわけではなく、まずは小豆島に移住しました。最終的にはいろいろな事業をしましたが、最初はポン菓子屋になったんです。実は「ポン真鍋」の「ポン」は、ここからきています(笑)。

活動の一つとして、小豆島のオリーブやしょう油などを都会の物産市で紹介したところ、「地域を伝える」という意味で「食」に可能性を感じました。食べものは単なる消費物ではなく、それ自体が人と人をつなぐのだということに気づいたんです。

——地域を伝えるための「食」だったのですね。

IMG_3764軽僕は、一次産業をなんとかしたいとか、有機農業を広めたいという視点からではなく、どちらかというと地域おこしの目線から入りました。そして、地域おこしとは何かといえば、「最終的に地域の人が地元に誇りを持てること」。それこそが、僕のゴールなんです。

そのためにどういうプロセスを踏めばいいかというと、始まりは単純に「小豆島って、いいね!」って言われることだと思うんです。人から「いいね」と認められて、嫌な思いをする人はいません。さらにその土地に愛着がわいて、もっと良くしようと思う。そうすると、より「いいね」が増えていくという好循環が生まれます。それが、最終的に誇りにつながるんだろうな、と。こう考えたとき、「食」の可能性が一番高いなと考えたんです。

■「いいね」をもらうには「食」が最も可能性が高い

——「食」に可能性を感じた理由は何でしょうか。

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理由は3つあります。まず一つに、食事は世界中の人が少なくとも一日に1回は行うもの。0歳から高齢者まで誰もが食べますし、「いいね」といわれる可能性のパイがでかいんです。

二つ目は、感覚的に「これはおいしい」「いいね」と表現できること。衣食住のうち、衣類は好みが分かれるし、住まいは専門性が必要だったりします。でも、食は直感的に反応できるんですね。

三つ目は、食と地域は絶対に紐づいているから、おいしいものを食べたときに「これはおいしい、どこの?」となりやすいこと。だから、一つでも多くの「いいね」をもらおうと思ったとき、この3つの要素を持つ「食」が最も可能性が高いんですよ。

そういうことを考えて「食」への思いを高めていたときに、友人であり、日本食べる通信リーグで理事をしている本間勇輝から「食べる通信」を立ち上げないかという話があったんです。2013年11月のことでした。

話を聞いて「やりたい!」と感じましたね。それまで僕がやっていた「食」の活動との違いは、定期購読の読者とFacebookでコミュニティをつくっていくという仕組みです。志の近い人と継続的な関係性が築けるところが魅力だと思いました。

そこで、「2014年の活動テーマは『食』でいこう!」と気持ちを固めました。その後しばらくして、故郷である高松市に拠点を移したんです。

■『四国食べる通信』ならではの特徴の数々

——創刊準備は、何から始めたのですか。

まずは、仲間を集めようと思いました。僕はそもそも編集もカメラもデザインも何もできない人間です。だからこそ共に『四国食べる通信』を創り上げてくれる人が必要です。その時、すぐに頭に浮かんだのが副編集長の吉田絵美とデザイナーの坂口祐です。幸いにも二人とも二つ返事で協力を約束してくれ、すぐにスタートを切ることができました。

次に、いろいろな設計ですね。2ヵ月に一度の発行にしたのは、単純に「毎月の発行は大変だろう」と思ったんです(笑)。でも、『四国食べる通信』の特徴の一つとして、1号で複数の食材を届ける“詰め合わせ”式にしたことで、1号につき2〜3人の生産者を取材することになった。つまり、毎月一人を取材するよりも取材先が多いことになりました(笑)。

——“詰め合わせ”式にした理由は何だったのですか。

四国食べる通信展示見本

実は当初、『瀬戸内食べる通信』にしようかなと考えていたんです。「瀬戸内」って響きが素敵だし。でも、僕自身が地元に帰ってきて感じたのは、「四国って、すげーいろんな食べものを作ってるな!」ということだった。四国は耕地面積が狭いから、産地として「生産量が日本一」のような目立つものはないんですが、気候がいいので多品目を作っていて、その彩りはすごいんです。

その彩りを伝えようと考えたら、瀬戸内海、太平洋、四国山地がある「四国」から海と山の幸の両方を届けよう、と。『四国食べる通信』だし、“詰め合わせ”だなって。

また、食べ合わせのいいものをセットにし、一食として食べられる状態にしたかった。食べものがなんでも手に入り、飲食店も豊富な都会も贅沢だけど、下手でもいいから自分の手を動かして食す贅沢さを届けようと考えました。そこで、30歳の男性でも調理できるレシピを入れることにしたんです。レシピは、情報誌の中に掲載するのではなく、レシピだけを独立させて、短冊型の形にしました。これを台所に置いてもらったり、冷蔵庫に貼ったりすれば、料理しやすいんです。

——他にも、『四国食べる通信』ならではの特徴やこだわりがありますよね。

食材の基本セットを二人前にしました。四国には、お遍路さんのおもてなしや接待文化、みんなで食卓を囲んで大皿料理を楽しむ文化があります。それを知ってもらうためには一人前ではないなと。「食」の本当の楽しさは、誰かと食卓を囲むことにあると思うんです。

また、情報誌を正方形の冊子にして、ピタッとおさまるようにオリジナルのダンボール箱も作って、毎回その箱で送っています。

■自然を相手にし、体験したことを伝える

——2014年5月、実際に創刊して苦労や失敗はありましたか。

いくつもありますよ(笑)。創刊号でいうと、情報誌のすべての制作作業が終了となる校了日に、編集長である僕がいなかったこと……。なぜかというと、僕がカツオ漁船に乗っていて、陸に戻って来れなかったんです。

「創刊号は高知のカツオのたたきでいこう!」と決め、事前に取材に行ってカツオ漁船に泊まり込みで乗せていただいたんですが、その年はカツオの動きが悪く水揚げが例年よりも1ヵ月遅れていて、その時は一切水揚げがなかった。

水揚げがないと、カツオが獲れている写真を掲載できない。そこで校了日の前々日、編集長としてもう一回泊まり込みで乗船したんです。乗船翌日の夜に帰ってきて僕が徹夜で作業をすれば、校了にギリギリ間に合うはずでした。

でも、またも一切水揚げがなく、そのままでは漁師さんは帰れない。太平洋上で僕一人だけが帰る術もないので、一緒に残ったんです。その後、無事に水揚げがあって、校了日の夜11時半に戻れたのですが、当然創刊号は校了していて、その写真はお蔵入りに(笑)。

そのとき、「自然を相手にするとはこういうことなんだな」と学びました。自分が体験して肌で感じたことを伝えるのが「食べる通信」だと思っているので、象徴的な出来事でしたね。

——自然相手では、予定通りにいかないこともありますよね。

2015年5月号は、室戸のトコブシとスマガツオとミニトマトをセットにして送りました。そのときは、トコブシが台風の影響で水揚げがなく、予定していた日程で送れなくなったんです。配送日を指定していた読者さんが約70人いたので、スタッフがその全員に電話をし、謝って配送指定日を変えていただき、泊まり込みで作業したこともありました。

■食品を扱い、発送することの大変さ

——情報誌を作りながら、発送の手配もしなくてはいけないのですね。

特に僕たちの場合は、詰め合わせなので発送は大変です。まず、旬が合わないといけない。予算に制約がある。詰め合わせの配送方法として冷凍・冷蔵・常温のどれかに統一しなくてはいけない。食材がオリジナルのダンボール箱に入るサイズでないといけない。食べ合わせがいいものを選ばないといけない。一カ所に束ねて送るのは大変。……と、このように6つくらい制約条件があるんです。ですから、新しく始める人たちに詰め合わせはおすすめしていません(笑)。

実は「食べる通信」って出版業ではなくて、その大部分は食品流通業です。間違いない日程で、間違いない商品を、間違いない状態で全国に滞りなく届けなくてはいけません。ここがしっかりしていないと、会社がつぶれる可能性だってあります。僕たちの商品は工業製品ではない。食材を扱うことの難しさは、想像以上でしたね。

リスク回避のために、生産者とは密にコミュニケーションをとらないといけません。早め早めの準備が必要です。創刊から約2年経って、前もっていろいろなことが考えられるようになりました。現在は、発送をしている時期と、次号の取材がほぼカブっている感じですね。

■「食べる商店」や「食べる食堂」などの“横展開”

——『四国食べる通信』は、実店舗があることも特徴ですね。

IMG_7697軽『四国食べる通信』がコアのビジネスなのですが、生産者の規模などからして読者数は600人くらいが限界だと思っています。収益を上げようとすると、せいぜい2,000万円の事業なんです。

ただ売上を上げることが目的ではないけれど、地域にインパクトを残すことや、地域に雇用を増やすことを思えば、会社を大きくすることも大事です。どうやったら会社として成長していけるかをイメージしたときに、「食」を基軸に横展開させよう!と考えました。

僕の生まれ育った家が15年ほど空き家になっていて、ここを事務所として使っています。2015年4月、この事務所に併設されたスペースに、四国産のしょうゆなどの加工品や生産物を売る「四国食べる商店」をオープンしました。

その隣のスペースもリノベーションして、飲食店営業の許可を取り「食べる食堂」を作りました。ここは現在、料理できる人や出店したい人に場所貸しをしています。公募したら多くの人が手を挙げてくれて、もうすぐほぼ毎日開店できそうです。夜は「食べる酒場」としてバーにもしたい。これらの情報は、Facebookで公開しています。夢や想いはあるけれど、その舞台がない人たちに活用してもらいたいと思っています。

——農業もやられていますよね。

IMG_3776,軽はい。そうした“横展開”に加えて、事務所の向かいにある耕作放棄地に「食べる農園」も作りました。自分たちで野菜を作っています。夏にはいろいろな野菜を育てましたが、今は僕が大好きなにんにく3,500個を植えています(笑)!

僕は、より作り手側になりたいんです。いつも考えているのは、「リアリティを取り戻せ」ということ。なるべく気軽に畑に入ってもらって、土や水を感じてもらいたい。120本の竹を使ったバンブーグリーンハウスも完成間近です。ここでピザを焼いたり、BBQをしたりしてもいいですね。これが“縦軸”の展開です。

また、“斜め軸”の展開として、ソフト事業も考えています。食に関する栽培や調理の知識が蓄積されてきているので、これを外に開くことが価値になります。たとえば、読者とのイベント「食べるキッチン」や、味噌づくりのワークショップ、料理人を呼ぶイベントなどです。

実店舗の他に、今WEB商店も立ち上げようとしています。2016年3月にスタート予定です。

——創刊からの約2年を振り返って、いかがですか。

良いことも悪いこともひっくるめて、『四国食べる通信』と共に歩んでいるこの2年が楽しいですよ。読者数は、今480人です(2016年3月現在)。実は今、僕の役員報酬は出ていません。あと100人ほど増えれば、事業として回っていくと思います。あと一踏ん張りしたいです。

僕らがやっているのは、すべて「場づくり」。街にないものをつくるのが僕のテーマです。

(取材・文:小久保よしの)

 

■プロフィール
ポンさんポン真鍋(ぽん・まなべ)●本名・眞鍋邦大。1978年、香川県高松市生まれ。2003年、東京大学経済学部卒業。学部時代は硬式野球部に所属し副将を務める。2005年、東京大学大学院新領域創成科学研究科修了後に、リーマン・ブラザーズ証券入社。同社の経営破綻後、米マイナーリーグでのインターン等を経験。2012年、小豆島へ“ほぼUターン”し、株式会社459を創業。2014年、食べる情報誌『四国食べる通信』を創刊。

※『四国食べる通信』は、2016年12月号をもって休刊しています。
  このインタビューは2016年3月14日に掲載したものです。