判断基準は「地域のためになるかどうか」だけ −−『下北半島食べる通信』編集長・園山和徳

七戸十和田駅から車で北へ3時間。吹雪にかすむ視界におびえつつたどり着いた先、青森県佐井村を拠点にするのは『下北半島食べる通信』園山和徳編集長(32)だ。地域おこし協力隊として本州最果ての村へ移住し、創刊した志と、現状への率直な思いを聞いた。

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■「遠いところ」だから佐井村に興味があった

——園山さんは、島根県松江市での前職では営業職を務めていらっしゃったのですよね。この佐井村の辺りには、当時から縁があったのですか。

前職では告知端末というものを販売していました。田舎の家庭に設置して、たとえば漁村であれば「きょうはアワビの口開け(漁解禁)です」というような村内放送を流す端末です。宮崎、石川、富山以外の都道府県、全部に行きました。青森でも半分以上の市町村に行きまして、佐井にも来ました。結局、採用されたのは別の会社のものだったんですけれどね。

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——その後、3年前から地域おこし協力隊として佐井村にいらっしゃるわけですが、そもそも協力隊に応募された当時の思いは、「協力隊になりたい」だったのか、佐井に対する関心だったのか、主にどちらでしたか。

ああ、そこは佐井です。僕は、僻地というか……大学で地理学を専攻していたときの研究テーマでもあるんですが、基本的に「遠いところの情報のほうが価値がある」と考えていまして。地域おこし協力隊というものの存在自体は知っていたんですが、ちょうど佐井が募集しているのを見つけまして、お、佐井か、佐井は遠いな!と。

——確かに遠かったです、ここは(笑)。採用が決まり、ここでの仕事と生活が始まった当時、協力隊として何をしたいという展望を持っていましたか。

佐井には、平成23年度から「あおい環プロジェクト」という村おこしの事業が立ち上がっていまして、地域おこし協力隊は、その事業を専任でやる人材として雇用された経緯があります。ですから僕の活動は、まずはその事業の中でやるべきことから始まりました。僕が来る前年に始まった写真コンテストや、わかめのオーナー制度などです。

あおい環プロジェクトが始まったばかりの頃は、地元の漁師が協力的じゃないとか、かなり温度差があって難しかったようですが、僕が来た頃にはもう、漁師のなかにもだいぶやる気のある人が出てきている状況でした。基本、佐井の人は外の人間に対してウェルカムですしね。

——ウェルカムですか。意外な気もします。

ここは、もともとがよそ者ばっかりの漁村ですから。北前船の寄港地として栄えたところで、何百年続いてきた旧家ではなく、江戸時代以降に海路を通じて入ってきた家がたくさん集まっている。その土地柄が大きいのだろうと思います。

■団体がやることは「地域のためになるかどうか」、それだけ

——『下北半島食べる通信』創刊より前に、佐井村は『東北食べる通信』で特集され、園山さんはその取材のコーディネートをなさっていますよね。

僕が協力隊になって1年後の3月、高橋さん(『東北食べる通信』編集長)から突然、「佐井村に行きたい、日にちは明後日なんだけど」とFacebookでメッセージが来た。明後日ですよ(笑)。どうやって僕のこと知ったんでしょうねえ。牛滝(佐井村南部の集落。園山さんが拠点とする北部の佐井地区からは車で1時間弱の距離)まで案内して、道行く漁師たちとちょっと会話したり。あのときは確かそんな感じでした。

——その後、園山さん自身が下北半島で『食べる通信』をやろうと考えるようになるまでにはどんな経緯がありましたか。

sonoyama-kazunori-3そこのところ、僕は軽いんです。高橋さんが6月にもう一回佐井に来てくれまして、そのあと確か8月に、「食べる通信」の輪を全国に広げるプロジェクトでクラウドファンディングをされたんですよね。僕も少し出資しまして、そのプロジェクトは成立し、ああこれが実現したらおもしろくなるなあ、という気持ちで「下北やるか!」と。そういう感じです。

ちょうど当時、平成26年秋ですが、こちらにも組織改編という変化がありました。旅行事業者を開業して地域活性化に役立てようということになり、その団体の別事業として、農業漁業振興事業の「食べる通信」を始めようと。

この団体がやることは何かといえば、「地域のためになるかどうか」それだけです。儲からないことはやらないというわけでもなく、必要ならやるべきだし、必要ないのであればやらない。下北半島というのは、もともと米もなく、単独では生きていけない地域で、いろいろなつながりのなかで生きてきたわけです。都市の消費者とつながる『下北半島食べる通信』は、そういう方向性に合ったものではないか。そのような判断はありました。

——「儲からなくても地域のためになるならやろう」。確かにそのとおりである一方で、目先のお金が優先されてなかなかそれをできない地域が多いのが実情です。素晴らしい決断ですね。

立ち上げたその別団体の基本資産を出しているのが、僕自身であるという事情もありますよね。自己出資ですから、この3年間で僕の家計はマイナスですが(笑)、まあいいかなと。基金ですから、自分がヘマしなければ返ってきますしね。

——そのように創刊に向けて動いているなか、『東北食べる通信』の佐井村特集が出ましたよね(平成26年12月号に掲載)。園山さんは、その経緯を先行事例として間近でご覧になっていたのではないかと思いますが、特集される側の地域として、何か変化を感じましたか。

記事に取り上げられた漁師の福田弘一さん、あの方が一番変わったんじゃないでしょうか。やる気になりましたよね。それまでは漁師という仕事に対する迷いもあったんじゃないかと思うんです。まわりに漁師がいないですから。40歳以下は、弘一さんくらいじゃないかな。継いでいる漁師が本当にいない。先輩ばかりだから風当たりも強いでしょうし。

でもあの特集があって、たとえば弘一さんが自分から情報発信をするようになりました。『東北食べる通信』主催の座談会に出て行って、そこで知り合った飲食店の方に食材を送るようなことも始めたようです。佐井でただただ漁師をしていたら、なかなかスポットが当たることもなく、人から評価を受けることもなく、親父に怒られ、先輩に怒られ……という状況のなかで、こんな風に評価されることもあるんだ、と感じるものがあったんじゃないでしょうか。まあ、僕にとっては地域の祭の先輩ですから、言いづらいんですけれどね(笑)。

■「下北を知らない」青森県内の人たちに広げたい

——平成26年12月にリーグ加盟の審査会を通過し、翌春に『下北半島食べる通信』が創刊されました。体制づくりはどのようにされたのですか。

一緒にやってくれるデザイナーは佐井にいました。下北半島内からライターとして入ってくれる人も決まった。そういうスタッフが偶然にも近くにいたことは幸いでした。そして、春の創刊号で何を取り上げようかと考えていたとき、「ふのり」を思いついたんですね。いやあ、ふのりはいいなあ、これしかない! と決めて、あとは勢いです。まあ、おかしいですよね。他の地域が伊勢エビとかアワビとかやってるなかで、ふのりですから(笑)。

——すごいセレクトだと思いました。ちなみに園山さんが「これで創刊しよう」とまで思った、ふのりの萌えポイントはどこだったのですか。

やっぱりねえ、あの岩にへばりついたのを、血を流しながら手で採るっていう……(笑)。

——あれは本当に、書き手の園山さんの思いが伝わってくる記事でした。今、「勢い」でやったとおっしゃいましたが、実際に創刊してみて苦労したポイントはどこでしたか。

取材をする、冊子をつくるということよりも、食材をどうするかが大変でした。あのときは、ふのり漁の解禁日が本当になかったんです。きょうもだめ、明日もだめという状況のなかで、漁が行われる地区まで1週間毎日通い詰めて。記事のほうは、ふのりでいくと決めた時点で、善し悪しは別として自分のなかに書くべきものが明確になっていましたから、困りませんでした。2号目以降は、だいぶ悩んで書きましたけれどね。

——創刊から4号になり、購読しているのは主にどのような層の方たちですか。

現在150人くらいの購読者がいて、首都圏が多いはずです。他の編集部のように、もっと東京なりに出て行って活動すれば数は伸びるんでしょうけれど、今のところだめですねえ。首都圏もそうだし、青森県内もそう。なかなか手が回っていないのが課題です。

県内は、もっとPRすれば伸びるだろうという予感はあるんです。青森の人たちは、下北のことを本当に知りませんから。おもしろいですよ。県の調査で、青森県内の津軽、南部、下北の3地区の人の印象を質問したら、南部の人は強情だとかいろんな回答が出てくるなかで、下北に対する回答第1位は「わからない」ですから(笑)。観光にしたって、青森市内からここへ来るだけでも立派な旅先ですからね。そういう意味でも、本当は県内にもっと広げたい。

——「県内で都市と田舎をかき混ぜる」ことができれば、意義あることですよね。

■「それでもやる」という人がやるのが「食べる通信」だ

——現在、下北という地域が抱える課題としては、何が大きいのでしょうか。

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地元の佐井についていうと、後継者不足に尽きます。漁村ですが養殖がなく、安定しませんから展望が開けない。北通り(津軽海峡に面する風間浦村、大間町、佐井村)は概ねそうです。大間だけはマグロがありますから栄えているように見えますけれど、マグロが獲れ続けるのかどうかという問題もあります。

——その課題に対し、『下北半島食べる通信』が一石を投じる存在になり得るとしたら、どんな部分だと思われますか。

どうなんでしょう……。僕たちは、この下北で特集する生産者を探すわけですが、自分で直接販売する、他のどこかとつながって販売していく、というやり方をしている生産者が、他の地域と比べても極めて少ないのだろうと感じています。つまり、取り上げる生産者自体をこれからどうしていこうか、という課題がある。ここは農業は強くない。漁業は豊富にありますが昔ながらの漁協から市場へという取引が中心です。僕自身の力不足も含め、本当に役に立っていくことができるだろうかと、悩んでいるところです。

——「食べる通信」のビジョンを理解してもらい、手を携えてやっていく相手を見つけること自体に大きな障壁があると。

たとえば、帆立漁師などは比較的若い人がいて、そこそこ安定もしている。でも、これから人は減っていくわけですし、「本当に今のままで大丈夫なんですか?」という課題が端からは見えるわけです。でも本人たちが、それを漁業界が抱える課題として認識されているかというと、必ずしもそうではなかったりする。なかなか難しいものがあります。

——読者を増やして経営を成り立たせていく難しさと、過疎の地域で生産者を開拓していく難しさ。今、様々な困難を抱えていらっしゃると思いますが、これから創刊しようとしている地域はまだたくさんあり、園山さんと同様の悩みにぶつかる地域も出てくるでしょうね。

まず、僕のように地域おこし協力隊で「食べる通信」を創刊したいと思いつく人は少なからずいるでしょうけれど、正直、大変だと思いますよ。僕の場合、佐井が特別に自由な活動が許されているからできているんです。だって『下北半島食べる通信』ですから、佐井村の外で活動しているわけで(笑)。

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一応、村外で取材などがあるときは休みを取っています。佐井は一番奥の場所で、「すべての近隣地域が佐井につながる血管だから、それがつぶれたらやっていけない」という大義名分がある。だから、村外まで広げるこのやり方が許されている。他の地域で、協力隊の枠組みのなかで創刊するのは楽ではないと思います。儲かる事業ではないから起業モデルにもなりづらいと思いますし。

先日、他の地域で協力隊をしている人がここを訪ねてきたときにもそういう話をしたんですが、もしも「食べる通信をやりたいんです」と僕のところに来た人がいたとすれば、「大変だし、儲からないし、すすめられない」と正直に言います。それでもやるという人が、やる。それが「食べる通信」だと思うんですよ。そういう人じゃないとできない。だから、僕がこういうメッセージを出すことも間違いではないだろうと思っています。

——他の地域の編集長のなかにも同じように言っている方がいました。とにかく大変だし、絶対にめげるから、「それでもやる」という何かしらの覚悟を決めておかないと続かないよと。

「食べる通信」はきっかけのメディアですから、僕は、極論を言えば必ずしも「出し続ける」だけを正解としなくてもいいんじゃないかと思っています。たとえば、親しくなった漁師さんがイベントなどで魚を販売するときに、「物語と一緒に売る」ノウハウを伝えていくことは可能なわけです。僕らであれば、「食べる通信」から体験プログラム的なものに発展させることもできる。この先、経営的に継続が難しい地域が仮に出てきたとしても、それで終わりということではない。僕はそんな風に考えています。

(文・保田さえ子)

 
■プロフィール

sonoyama-kazunori-prof園山和徳(そのやま・かずのり)●1984年、島根県出雲市生まれ。同県松江市のIT企業で営業職を務めたのち、2013年3月より青森県佐井村の地域おこし協力隊に。2014年11月、地域活性化団体「くるくる佐井村」を設立し、代表理事に就任。2015年春、『下北半島食べる通信』創刊。

※『下北半島食べる通信』は、2018年1月号をもって休刊しています。
  このインタビューは2016年3月3日に掲載したものです。