経済優先で失った「命」の軸を取り戻したい、
水俣から挑む「食」の恩返し
−−『水俣食べる通信』編集長・諸橋賢一 <前編>


『水俣食べる通信』編集長の諸橋賢一さんは、農業の力を信じる熱い男だ。彼がひもとく生産者の物語は、一鍬(くわ)ごとに情熱を込めて土を耕すように、力強さと優しさにあふれている。食べもので苦しい思いをしてきた土地だからこそ、食べもので未来をつくりたい。水俣の過去を抱きしめて生きてきた人々は、「命」と「食」の尊さを自らの経験で知っている。諸橋さんが生産者とともに「食」を通じて始めた水俣の“もやい直し”。東京出身の彼が移住して『水俣食べる通信』を始めたきっかけは、東日本大震災に遡るという。

■東北での経験が今につながっている

――諸橋さんが「食べる通信」と出会ったきっかけは何ですか?

3.11が起きた当時、僕は茨城県に住んでいました。職場も震度6弱の揺れに襲われ、電気やガソリン、食料も手に入らない。やっと電気が復旧してテレビをつけると、津波の映像と福島の原発事故のニュースが流れていました。それを見た瞬間、自分の頬を叩かれたような衝撃を受けたんです。

東京出身の僕は、福島でつくる電力によって都会の便利な生活が成り立っていた現実を初めて知りました。「原発ってなんとなくイヤだな」と思いながら、ずっと無関心だったことを後悔しました。僕は「日本の農業の役に立ちたい」と思ってがむしゃらに働いてきたけれど、会社の仕事だけではダメだと思ったんです。企業あっての社会ではなく、社会あっての企業ではないかと。

それから僕は東北にボランティアに通うようになりました。岩手県の「遠野まごころネット」という後方支援拠点に寝泊まりしながら、陸前高田で大量の腐ったサンマの山を片付けたり、他の被災地でもがれき撤去の作業をしました。また、母校の東京農業大学の卒業生や学生と「農大復耕支援隊」を結成。岩手県大槌町を中心に被災された地元の方と花壇や菜園をつくる活動をしました。東北での多くの出会いや経験が今の自分の生き方にもつながっています。

ただ、ボランティアは通う側も、受け入れる側もしんどい部分がありますよね。長く続けるには友達になったほうが早い。だから、2012年に大槌町を応援する仲間たちと「大槌わくわくファンクラブ」を立ち上げました。高橋博之さんと知りあったのも、その東京でのオフ会がきっかけです。翌年、博之さんが『東北食べる通信』というメディアを創刊すると聞いて、面白そうだと思って僕も読者になりました。

■大学で有機農業を学び、農薬メーカーに就職

――全国の「食べる通信」編集長のなかでも、諸橋さんは日本の農業事情や農薬分野に詳しいプロフェッショナルですが、大学で農業を学ぼうと思ったのはなぜですか?

自分の手で食べものが作れるようになりたいと思ったからです。高校時代の僕は海外の途上国支援や砂漠緑化に興味がありました。当時は温暖化など地球規模の環境問題がクローズアップされ始めた時期。僕は人間の経済活動そのものが環境破壊につながることに矛盾を感じていました。でも、親のスネをかじって偉そうなことをいっても、僕は自分で食べものを作ることができない。頭でっかちな自分がカッコ悪いと思いました。だから、大学で農業を学ぼうと決めたんです。

――大学時代はどんなことをしていましたか?

国際農業開発学科で化学肥料や農薬に頼らない有機農業を学びました。春休みや夏休みには、国内外の農家さんに泊まりこみで実習をさせてもらいましたね。中南米のドミニカ共和国にも農業研修に行きました。多くの農家さんと出会うなかで、農家は僕にとって憧れの存在となったんです。

実習でお世話になった農家さんは、農薬の使用・不使用や栽培方法に関係なく、とても尊敬できる人たちでした。当時の僕は有機農業を支持していましたが、実際に国内で流通する農作物の99%は、農薬や化学肥料を使用しているのが現状です。農薬を否定することは、現在の日本の農業を否定することにもなってしまう。僕は農業の世界にかかわるならば、農薬をもっと知る必要があると思って農薬メーカーに就職しました。

――有機農業を学んで農薬メーカーに就職とは、意外な展開ですね。

入社面接での社長の言葉を今も覚えています。「君は白黒がはっきりしているようだけど、世の中にはそれだけでは通じないこともあるんじゃないか」と。僕は「ゴールに向かうためには白や黒だけではなく、グレーを許容することも大事だと思う」と答えました。

――入社してどんな仕事をしていましたか?

最初の5年は、北海道で営業をしました。それから茨城で農薬の製品開発を5年。岩手にボランティアに通ったのもこの時期です。自分のなかで仕事と社会活動のバランスがうまく回り始めた頃、福岡への転勤が決定。予想外でしたが、九州に行くことはきっと何か意味があると思いました。

■現場で感じたジレンマ、生産性だけが日本の農業の価値?

――諸橋さんにとって、福岡転勤は人生の大きな転機になりましたね。

そうですね。転勤後は熊本県内の営業を2年担当。農業の現場をまわりながら、僕はあらためて多くのことに気づきました。現場ではどの生産者やJAの指導員も本気で農業に取り組んでいます。ところが、彼らの情熱や農業の豊かな魅力が食べる人には全く伝わっていない。日本の農産物の流通システムはとても優れていますが、効率性や利便性を追求し、作物の安定的な生産や供給ばかりが重視されがちです。でも、農業の価値はそこだけじゃない。僕はいつも現場で働きながら思っていたんです。生産者と消費者をつなぐ別の方法があってもいいんじゃないかと。そんな時に高橋博之さんが『東北食べる通信』を始めたので、僕も仲間になってこの活動を広げたいと思いました。

――「農」がもたらす本来の豊かさを知っているからこそ、ジレンマを感じたのでしょうね。

現在の日本の農業政策は、なるべく農家を集約して効率よく大規模化を進める流れにあります。大規模な農業をするには農薬や化学肥料が必要になり、それを実践する農家にはより多くの補助金が出るという仕組みです。農薬のシェアの多くは、外資系のメーカーが握っています。つまり、大規模になればなるほど、税金が農家を経由して海外に流れてしまうわけです。それが日本の農業の現状で、消費者は選択すらできない。現場ではメーカーも指導員も、農家さんも、農薬がなければ農業ができない状況で、僕自身もそれを否定できなくなっていました。この構造を変えることは困難と感じたので、僕はここから外に出ようと。消費者の選択肢を増やすためにも、小規模な流通が成り立つ仕組みづくりにかかわりたいと思ったんです。

2014年12月、僕は会社を辞めて水俣に移住。小規模農家がつくるオーガニック食材などを販売する会社に転職しました。

――グローバルな枠組みでの農業のあり方に限界を感じて“脱藩”されたわけですね。移住先に水俣を選んだのはなぜですか?

大学時代の親友が水俣にいたからです。九州に転勤してからは、水俣に何度も足を運ぶようになりました。友人は町おこしの活動にも取り組んでいて、僕もそこで出会った人たちの熱い想いや魅力にふれて、水俣が好きになりました。友人の実家の農場は、レストランやワイナリーも併設した熊本県内でも有名な観光農場です。先代が家族で松林を開墾して果樹を植えたのがはじまりだそうです。花が咲いて、みかんが実って、みんなでお弁当を広げて楽しめるような場所を作りたいと。この農場の高台から眺めた水俣の海や山の風景が本当に素晴らしくて、僕は水俣に移住してもいいなと思いました。

■『水俣食べる通信』を創刊、「食」から始めるもやい直し

――『水俣食べる通信』は2015年12月に創刊。全国に「食べる通信」の輪は広がっていますが、諸橋さんはなぜ水俣で創刊しようと思ったのですか?

『水俣食べる通信』のテーマは、「みなまた、食の恩返し」です。1956年に水俣病が公式に確認されてから60年が経ちます。水俣は福島の原発事故が起きる60年も前に、日本の高度経済成長を支えた負の犠牲となり、水俣病による直接的な被害や住民同士の対立、地域コミュニティの分断を経験してきた土地です。水俣ほど生産者が食べることや生きることに悩み、当事者として「食」の安全や「命」に向き合ってきた地域はないのではないでしょうか。僕は水俣で「食べる通信」をやるからには、そこに光を当てなければと思いました。

水俣の若い世代の生産者と話をすると、その想いのなかには必ず、地元の「食」を守ってきた先輩たちの姿があります。「食」で大変な思いをしてきたからこそ、農薬や化学肥料を使わないで作物を育て、食の安全性や環境保全に対する意識が高い生産者が多いです。『水俣食べる通信』では、水俣病による風評被害や苦難のなかで、真摯に食べものを作り続けてきた人たちの生きざまや想いを伝えて、ありのままの水俣を表現できればと思っています。

――私も熊本出身ですが、『水俣食べる通信』を読むと私の知らなかった水俣に気づかされます。「食」で水俣を語るというのは、これまでなかったアプローチでは?

今までは水俣といえば、議題の中心に「水俣病」や「チッソ」があって、それを前提に水俣のストーリーが語られてきたのだと思います。でも、それだけが水俣じゃない。そこにとらわれることなく、「食」を通じて水俣に関心を持つ人が増えたらいいなと思っています。食材と一緒にストーリーが届く「食べる通信」だからこそ、できることがあります。生産者の想いがこもった食べものを味わい、水俣の課題を共有できる当事者が増えると、さまざまなコミュニティや人の交流も生まれます。まずは地元の人と一緒に水俣を盛り上げて、外にも仲間を増やしていきたいですね。

――水俣には「もやい直し」という言葉があります。諸橋さんは水俣病によって分断された人と人とのつながりや、人と自然とのつながりを「食」で結び直そうとしているのですね。

漁師さんや農家さん、水俣病の患者さん、チッソで働く人、そして行政の人も、みんな同じ水俣の人です。でも、立場が違えば水俣病に対する考え方や利害関係が違う。だから、同じ土地に暮らしていても、これまではお互いに話せる接点がほとんどなかったそうです。『水俣食べる通信』がさまざまな視点で水俣への想いを共有できる媒体となり、新たなコミュニケーションをはぐくむきっかけになればと願っています。

「水俣病の大きな罪は、この豊かな海に人が近寄れなくなったことだ。『水俣食ベる通信』を通じて、地元の人たちが再び海に触れる機会ができればいい」。水俣にゆかりのある方から頂いたこの言葉は、僕の励みになっています。これからは「食」を通じて海や山を行き来する機会が増えて、人と人、人と自然との交流が広がると嬉しいですね。海と山と町がつながって、水俣のなかで循環する暮らしができたらいい。それが『水俣食べる通信』のビジョンです。

<補足>

1956年に水俣病が公式確認されてから60年。チッソの企業城下町といわれる水俣は、日本の高度経済成長を支えた一方で、水俣病による直接的な影響のほか、差別や風評被害、家族や親戚・地域コミュニティとの亀裂など苦い経験をしてきた。原因物質となったメチル水銀は、プラスチックや化学肥料などの中間原料となるアセトアルデヒドを作る過程で生成されたものだ。当時、チッソ水俣工場は日本の戦後の経済成長をけん引する化学工場で、アセトアルデヒドなどの製造分野においても日本のトップシェアを占めていた。

それから長い歳月を経て、メチル水銀に汚染された魚の回収や水俣湾のヘドロの埋め立て工事が完了。水俣は国内でも先進的な「環境モデル都市」となった。無農薬栽培に取り組む農家も多く、市内のゴミの分別は20種類以上にもおよぶという。しかし、水俣産の食べものに対する消費者の理解や、地域コミュニティの再生はまだ道半ばだ。

■「水俣病はもうよかばい」

――創刊して地元での反応はどうでしたか?       

創刊前から購読を申し込んで頂いた方は約120名。地元の読者は2160円で、僕が手渡しで届けています。実際に取材した方々が冊子を見て喜ばれるとやりがいを感じますね。水俣を「食」で表現するのは新鮮だという声もありました。特集した生産者の家族が冊子を100部購入して知り合いに配ってくださったり、「ここに今の水俣がある」という言葉を頂いて嬉しかったです。

――創刊号の冒頭に登場した「水俣病はもうよかばい」という漁師さんの言葉は、とても印象的でした。

創刊号で登場した漁師の田村辰紀男(たきお)さんは、観光船の運営もされているので、水俣病の風評被害が生活にも密接にかかわっています。あの言葉は水俣の海で42年間、漁師をしながら風評被害と戦ってきた田村さんだから言える言葉です。

地元でも多くの反響がありました。水俣病に対しては、さまざまな立場や想いを持つ人が多く、表現する言葉の受け止め方は人によって違います。なかにはつらく感じた方もいらっしゃると思います。でも、「水俣病はもうよかばい」という田村さんの言葉を否定したら、田村さんの人生には入り込めなくなる。彼の言葉の裏にあるのは、「水俣病にとらわれるのではなく、次の未来に住みたい」という希望であり、決して悲しい響きじゃないんです。僕は水俣で生きてきた人からにじみ出る言葉を大切にしたい。一歩踏み込んでなぜ、そういう言葉が出てきたのか?その背景や想いをしっかりと受け止めて、伝えていくことが大事だと思うのです。

――さまざまな立場の生産者が登場し、毎回違う視点から水俣を知ることができるのも興味深いですね。

第2号の「甘夏」特集に登場した高橋昇さんは、水俣病の患者支援で東京から移住してきた人です。かつては水俣市内でビラを配り、患者さんの現状や原因企業の責任を訴えていたという。だから高橋さんは、移住してきた当初、水俣の町の人は敵だと思っていたそうです。

でも、今は土地の人になって溶け込んでいる。無農薬栽培は白や黒の世界ではなく、畑のなかの生物のバランスを整えて、いかに甘夏にとっていい状況を作るかが自分の仕事だとおっしゃるんです。高橋さんは地域で暮らすなかで、いろいろな立場や役割があることに気づき、立場やバランスを尊重するようになったそうです。「地域で生きることは、引き受けること」だと。

『水俣食べる通信』でもさまざまな生産者の人生を伝えて、それらが蓄積された時に本当の水俣が見えてくるんじゃないかと思っています。そこに未来のヒントがあるのかもしれない。今はその種まきの時間です。僕は「食べる通信」という鍬で耕しているイメージです。いつ芽が出るか、何が育つかわからないけれど、違うものが出てきても、認めあえる寛容さがほしい。水俣にはそういう度量を持つ人が多いような気がします。

■水俣は世界の最先端になる

――水俣病の公式確認から60年。諸橋さんが東京や東北ではなく、水俣に移り住み、『水俣食べる通信』がこのタイミングで誕生したことに不思議なめぐりあわせを感じます。

恥ずかしながら僕は水俣病といえば、チッソが有機水銀を含む工業排水を海に流したために起きた公害病という認識しかありませんでした。水俣に来て何も知らなかった自分を知ったのです。その悔しさは忘れません。

水俣病の教訓が福島の原発事故に生かされていないこともショックでした。水俣病も福島の原発事故も、根底にあるのは同じ構図です。60年経ってもまだ水俣病は終わっていない。そして、福島でもまた同じことが繰り返されようとしています。

水俣病の根本的な問題は、本来並べて考えること自体が許されない「命」と「経済」を天秤にかけて、経済を優先したことにあるのだと、僕は『水俣食べる通信』の取材をしながら感じています。新たな未来をひらくことは、「経済」ではなく、「命」に向き合うことでしかできないのではないかと。

水俣は日本の縮図です。この土地が背負ってきた課題をスルーして、その先の未来には行けない。僕は水俣での出来事が社会の糧となる前に、福島の原発事故が起きてしまったのだと思います。だから、まずは水俣が輝くこと。それが福島の希望にもつながると思っています。僕はここで新たな価値観やコミュニティが生まれるところに立ち会いたい。それが実現した時、水俣は世界の最先端です。

(取材・文 高崎美智子)

→経済優先で失った「命」の軸を取り戻したい、水俣から挑む「食」の恩返し−−『水俣食べる通信』編集長・諸橋賢一 <後編>を読む

■プロフィール

諸橋賢一(もろはし・けんいち):東京都生まれ。東京農業大学卒業後、農薬メーカーに入社。12年勤めたのち、2014年12月に水俣市に移住。水俣病の60年の歴史のなかで風評被害などに翻弄されながらも「食」と「命」に真摯に向き合う生産者たちに感銘を受け、2015年12月に『水俣食べる通信』を創刊。現在は水俣の中山間部の小さな集落に活動拠点を移し、「農」のある暮らしにシフト。山から海をつなぐ挑戦をしている。