二拠点生活から移住、少数読者との濃いつながりを実現
−−『稲花-ineca-食べる通信 from 新潟』編集長・手塚貴子


『稲花-ineca-食べる通信 from 新潟』の編集長を務める手塚貴子さんは、東京で企画制作関連の会社を経営している。自分の夢を叶えた手塚さんが次に選んだチャレンジの舞台は、新潟市岩室にある小さな田んぼだった。「手塚の田んぼ」と「食べる通信」、なんでも自分でやってみなければわからない。手塚さんの新潟での暮らしは毎日がアドベンチャーだ。

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■東京から新潟に移住、二重生活からのスタート

――まず初めに、「稲花」(いねか)という名前の由来を教えてください。

お米に花が咲くことを知っていますか? 私は新潟に来て初めて知りました。日本人の主食はお米なのに、花が咲くことを知らないで食べている人がとても多いと思います。だから私はそれを知ってもらいたくて「稲花」と名づけました。「いいねっか」という言葉は、こちらの方言で「いいじゃないか」という意味もあるそうです。地名が最初につかない食べる通信は今のところうちだけです(2015年12月の取材時点。その後『つくりびと〜食べる通信 from おおさか』が加盟)。

――手塚さんは東京でどんな仕事をしていたのですか。新潟に移住したきっかけは?

今も会社は東京にあり機能していますが、有限会社フル―ヴという会社を経営し、企画制作やマーケティング関連の仕事をしています。私の夢は東京でマンションの一室を事務所にして、自分のサイクルで好きな仕事をしながら、自分の生活を楽しむことでした。幸いにもその夢は実現できたのですが、ではその先はどうやって生きていこう? 東京でマンションを買って事務所を持つと、その生活を維持するには仕事をこなさなければなりません。先行きに大きな不安があり、今後やってみたいと思っていたことのために、大学院で学ぼうと思いました。大学院では公共政策学を専攻し、子育て中の女性の再就職について今も研究しています。

ちょうどその頃、私は酪農生産者の団体から依頼を受けて、通販のホームページを制作することになりました。私は都会育ちで、牛を間近で見たことがない。それで牛の取材のために初めて新潟を訪れました。その時に来たのが新潟市の岩室地区です。岩室には海と山があり、おいしい食べ物や温泉もあり、私は牛よりもこの町が気に入って何度も訪れました。そして、2013年11月に引っ越してきてしまいました。

――最初に新潟を訪ねてからどのぐらいで移住したのですか?

約1年半後ですね。私は都会暮らしが大好きでマンションも銀座から徒歩圏内に買ったし、東京から離れるなんて想像できませんでしたが、新潟には全く自分の知らない世界がありました。空気や食べ物がおいしくて、ここにはなんでもある。東京ほどお金をかけなくても、充実して生きていける気がしました。人生の折り返し地点にきて、私は好きなことをして生きていきたいと思ったんです。

移住する時は、親にも周りの人にも反対されました。最初は東京の生活を残したままでの二重生活。1年経ってようやく親も納得してくれたので、2015年5月に住民票を新潟に移しました。

■創刊へのキックオフ、「手塚の田んぼ」で初めての米作り

――「食べる通信」との出会いや、創刊のきっかけは何ですか?

tezuka-takako-2移住した当初、私は農家さんのおいしい食材をセレクトして詰め合わせた通販をしようと考えていました。でも、旬の時期には同じ作物ばかりが収穫されていることに気づき、通販は断念。新潟にはおいしい食べ物がたくさんあるので、何かできないかと模索していました。

そんなある日、私の友人が東北食べる通信編集長・高橋博之さんのフェイスブック投稿にいいね!を押していました。その投稿を読んでみたら面白くて、初めて「食べる通信」の存在を知りました。食べ物を作る現場や、生産者の苦労を伝える「食べる通信」の仕組みは、私がやりたいことと同じだったのです。すぐに高橋さんに連絡して「私もやってみたい」と伝えました。偶然にも私と高橋さんはその週に上京の予定があり、東京で高橋さんと本間勇輝さん(日本食べる通信リーグ理事)にお会いしました。彼らは夢や希望を熱く語る人たちで、すぐに話が盛り上がりました。ただ、あまりにも素晴らしい話ばかりなので、私はそんなにうまくいくのかと、少し不安になりました。

「その人たちと一緒に仕事をしたいと思うなら、やってみたら」。新潟に帰って相談した友達の言葉を聞いて創刊を決意しました。まずはスタッフ探し。私は新潟のことが何もわからないので、地元でスタッフを探したいと思ったのです。うちの田んぼの田植えイベントに来ていて知り合ったデザイナーさんにさっそく連絡しました。

――「手塚の田んぼ」がスタートしたのもその頃からですか?

すでに、2014年の春から私は田んぼを借りて、地元の人の指導を仰ぎながら無農薬のお米作りに挑戦し始めていました。「手塚の田んぼ」と名づけて、5月上旬に生まれて初めての田植えをしました。「食べる通信」と出会って高橋さんとお話したのが5月中旬。そして、新潟でも創刊しようとはりきっていたのですが、5月下旬に田んぼ横の用水路に落ちて、肋骨を3本骨折してしまったのです。

創刊準備は延期になりましたが、用水路に落ちた事件をきっかけに東京の人が私を心配したり、「手塚の田んぼ」やお米作りに興味を持ってくれるようになりました。そんなに大変な思いをしているなら、手伝おうかと。「私も、私も」と新潟に来て草取りを手伝ってくれて、本当にありがたかったです。あの事件がなければ、私が普通に田んぼでお米を作って、それを買ってもらうだけの関係だったかもしれません。

■読者が集まらない誤算、創刊直後に休刊を覚悟

――創刊にあたってどんなことが大変でしたか?

「食べる通信」の加盟審査を通過したのは、2014年9月。企画書や事業計画書は早い段階で提出したものの、ネーミングでなかなかOKが出ませんでした。季刊発行では回数が少ないため、『新潟食べる通信』という名前も、『越後食べる通信』もダメだと。当時、「食べる通信」は全国で3誌だけ(東北・四国・東松島)でしたが、県名を名前につける場合は、隔月以上のペースで発行することが条件になりました。それで、冒頭でお話したように、私はお米にも花が咲く感動を多くの人に伝えたくて、「稲花」という名前をつけました。

創刊時に一番大変だったのは、読者が思うように集まらなかったことです。当時、『東北食べる通信』には1200~1300人、『四国食べる通信』や『東松島食べる通信』も300~400人の読者がいました。私も食べる通信を創刊したら、すぐに読者が集まると思い込んでいたんですね。創刊号で約100人、2~3号目で500人ぐらいになるだろうと。ところが読者が全然、集まらない。フェイスブックページにいいね!が800ぐらいあるのに、そこからも流れてこない。不安でたまりませんでした。

最初の読者は40人。発行した瞬間にダメかもしれないと思いました。事業計画書での損益分岐点は300人なのにどうしよう……。3300円という値段が原因なのか、体裁が他の食べる通信と違うからなのか。すでに2号目の制作を始めていましたが、このままでは赤字が続くばかり。休刊か、コストを切り詰めるしかないと思いました。

――休刊か継続か、苦渋の選択ですね。

高橋代表にも相談しました。高橋さんは「できれば続けてほしい。でも手塚さんの生活が第一。好きなようにしていいですよ」と。本間さんは「休刊ではなく、A3サイズの二つ折りでいいから、手塚さんにできる範囲で続けてほしい」との意向でした。食べる通信が今後3年間で100誌を目指すなかで、私が休刊とか二つ折りの食べる通信を出すのは足手まといになると思いました。でも、本間さんはこうおっしゃったんです。「40人しか読者がいなくても食べる通信が発行できるモデルになるのでやってください。食べる通信の枠にこだわらなくていい。手塚さんが好きなようにしてください」と。

この出来事の直後、私の友達や読者が手塚ハウスに遊びに来て、『稲花』のことを「これ、すごくいい雑誌だよね。こういう雑誌、必要だよね」と言ってくれました。私は嬉しくて、やっぱり必要なんだ、続けなきゃと思いました。その翌日に参加した食べる通信のリーグ運営会議では、そのままの形で継続することを報告しました。続けるためには固定費を削らなければならない。スタッフにギャラを減らしたい意向を正直に話すと、「他の人にはやらせたくない。自分がやりたい」と了承してくれました。

■少人数だからできる、読者との濃いつながり

tezuka-takako-3読者が増えないなら、私はそれを活かして少ない人数だからこそできることをやってみようと方向転換しました。「手塚の田んぼ」での田植えや稲刈り、野菜の優先販売、手塚ハウス(※手塚さんのご自宅!現在は近隣に移転)に来て泊まってもらう、特集した農家での農業体験など、読者だけが参加できるサービスを増やしたのです。

――手塚さん自身が生産者でもあるという点で、読者とのつながりはCSA(コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャー)に近い。『手塚食べる通信』のようですね。

他の食べる通信と違って、私自身も生産者という点は大きいかもしれません。手塚ハウスに来たらいつでも農作業が体験できます。自分が植えたものがどう育つか、ぜひ知ってほしいですね。楽しい収穫だけで終わるのではなく、育っていく過程や途中の失敗から多くのことを学びます。私はそういうことを『稲花』の読者と一緒にやりたいと考えています。

生産者とつながることも大事ですが、農作業を通じて食べる人が作る人の苦労を知ると、食べ物に対する見方や選ぶ基準が変わります。そして生産者にも優しくなれる。台風や大雨の時は読者から「稲は大丈夫?」という連絡がきます。

私は自分でお米作りを始めるまでは、苗を植えたらそのまま自然に育つと思っていました。ずっと東京で暮らしていたので、田んぼに入ったこともなく、稲刈りをしたこともなかった。作る人の大変さを何も知らないまま、食べ物を食べてきたことを知りました。お米作りにはとても手間がかかります。他の農作物もそうです。だから、そういう情報をもっと読者に伝えたいし、新潟の食べ物に想いを寄せて食べてもらいたいです。

――『稲花』の特集でフルーツが多いのはなぜですか?

私は料理をするのがあまり好きじゃないんですよ(笑)。だから、届いたらそのまま食べられるものがいい。特にフルーツが大好きです。お米作りの大変さを伝えるのはもちろんですが、「お米だけじゃない新潟のおいしいものを届けたい」というのが『稲花』のコンセプト。毎回、私が大好きなものを特集しています。キウイフルーツの特集号では、完熟のものと追熟が必要なものを届けて自分で追熟をしてもらうようにして、熟していく楽しみを読者のみなさんに味わってもらいました。特集したい食べ物がたくさんあって、年4回の発行では足りないぐらいです。

――手塚さんは新潟に移住して、どうやって田んぼを見つけたのですか?

移住した当初、私は賃貸アパートのように「この田んぼを貸してください」と言えば、すぐに借りることができると思っていました。牛の取材でお世話になった岩室の酪農家さんに「私、今度引っ越してきます。田んぼをやるんですよ」と話したところ、「ええっ!田んぼはどうするの?」と驚かれました。私はアパートの窓から見える田んぼを借りようと思っていたのですが、知り合いでもないのに田んぼを借りることがどれだけ複雑で難しいことか。今になると理解できますが、当時の私は何も知りませんでした。結局、その酪農家さんが自分の田んぼを私に貸してくれたんです。

「私も新潟に引っ越そうかな」とおっしゃる読者もいますが、いきなり移住するのはなかなか難しいと思います。時々遊びに来て、新潟がどんなところなのか、まずは見て知ること。移住というよりも、新しいフルサトをつくるつもりで、その土地を知って、地域の人と仲良くなりながら考えるのがいいと思います。

■地域は多様性の宝庫、いろいろな「食べる通信」があってもいい

――これから創刊する人たちに向けて、何かアドバイスはありますか?

tezuka-takako-4食べる通信はタブロイド判のものが多いけど、もっといろいろなカタチの食べる通信があってもいいと思います。小さなコミュニティの食べる通信も出してほしいですね。50部をまっとうな価格で発行して50人の読者と仲良くなろう、そういう気持ちで続けていけば、100人になるかもしれない。私のように最初から600人を思い描くと、スタートして40人しか集まらなかった段階で挫折しそうになります。お互いの家族構成までわかるぐらい読者や農家さんが仲良くなって、親戚のようなつき合いができればいいですね。

――『稲花』の編集長として、今後のビジョンを教えてください。

『稲花』の読者数も今は2倍に増えています。黒字化まであと一息。できれば『稲花』はずっと続けたいです。たとえば読者が500~600人になれば、ビジネスとしては充分に成り立つかもしれませんが、読者が増えると今のような深い交流は難しい。今の繋がりを維持することを考えると、うちは200人までならなんとかなると思いますが、さらに増えた時にどうするか考えなければなりません。

私はもともと通販サイトの運営や、広報誌・ウェブコンテンツなどの企画制作、営業などを手掛けていたので、『稲花』でやっていることには、これまでの経験がすべて活かされています。今後は岩室だけでなく、新潟の各地域を取材していきたいですね。農家さんと一緒に農産物の6次産業化や商品開発をしたり、『稲花』での情報発信を通じて具体的な販売先を見つけるお手伝いをしていきたいです。

(取材・文:高崎美智子、写真:横山満)

 

■プロフィール

tezuka-takako-prof手塚貴子(てづか・たかこ)●1962年、北海道生まれ、東京育ち。大学卒業後、専門商社・派遣社員・広告代理店・ベンチャー企業に勤務したのち、2002年に有限会社フルーヴを起業。2013年11月に新潟に移住し、2014年の春から無農薬の米作りに挑戦する。同年11月に『稲花-ineca-食べる通信 from 新潟』を創刊。