都市小屋という監獄


消滅世界

セックスも家族も世界から消える。

舞台は、人工授精で子どもを授かるのが一般的になり、性交が昔の交尾の名残と忌み嫌われ、家族も古びた制度に過ぎないと一蹴される近未来の日本。村田沙耶香の新刊『消滅世界』は、フィクションの小説だと斬って捨てられないリアリティに迫る物語だった。不妊治療の増加、セックレスの増加、離婚・未婚の増加。今の日本が向かってる先は、彼女が描いた『消滅世界』そのものではないだろうかと思わず考えてしまうほどにリアルだった。そして、この本を読了したときに真っ先に頭に思い浮かんだのは、被災地で建設が進む防潮堤だった。あの、海と陸を隔てる巨大なコンクリートの壁。

『保育園落ちた日本死ね!』ブログが火種となり、政治家も無視できない社会問題にたちまち浮上した待機児童問題。シングルマザー、貧困問題も絡み、一筋縄ではいかない。貧困にはいろいろ定義があるが、ぼくは、人間が自然、家族、地域社会から剥奪されて貨幣経済に組み込まれ、それでいて貨幣がない状態のことを貧困だと思っている。ただお金がないだけでは貧困にならない。自然、家族、地域社会とのつながりを失った上でお金がない状態が、貧困。それは、戦後、地方の農山漁村から始まった。今、都市で起きているのは、地方の農山漁村をかつて痛撃した「貧困」の都市化ではないだろうか。

人間の尊厳や生命より経済成長を優先させた結果、引き起こされた水俣病。あれから間もなく60年。大量消費社会の辺境に外部化・間接化された歪みは、その後、全地球化されていった。行き場をなくした歪みが、ブーメランのように戻ってきて、投げ手の東京に襲いかかっている。今、大都市で起きている貧困問題などは、顔を変えた水俣病なのだと思う。

もっと深刻だと思うのは、保育園をそもそも必要としない新人類が日本に生まれ始めていることだ。貧困問題とコインの裏表の関係にあるが、こちらは裏側なので見えず、社会問題に浮上しにくい。しかし、確実に個人と社会を静かに深く蝕んでいる。そして、お金では解決できないところもやっかいだ。人間が変容しているのである。

東京23区の30代前半の女性未婚率が45%と都市部で晩婚化が進んでいる。男性もこれを追いかける。「晩婚化」とメディアはいう。しかし、これは本当に晩婚化なのだろうか。厚生労働省が若者を対象に実施した「21世紀成年者縦断調査」で、子どもを望まない若者が10年間で増加していることがわかった。その理由として、一般的に言われるのが、非正規雇用の広がりなどの経済的要因である。もちろん、それもあるだろう。でも、その見方だけでは今起きている変化の本質を捉えられない。

今回の調査の対象者は、31〜45歳の既婚男女、独身男女。平成14年に独身だった人はこの10年間で、希望する子どもの数が0人という回答が、男性8.6%から2倍弱に、女性7.2から11.6%に増加している。子どもを欲しくない理由を見ると、「子育て・教育で出費がかさむ」よりも、男性では「感じていることは特にない」、女性では「自分の自由な時間がもてなくなる」が上回っている。子どもに興味がない、子どもにかける時間とお金があれば自分にかけたい、つまり、子どもを産み育てることの価値が昔に比べて下がり、そうした生き方も選択肢のひとつとして社会に許容されつつあるということを、この調査結果は示している。

鶏小屋で餌付けされた鶏は、生殖能力が著しく減退する。都市の消費社会を生きるぼくたちは、都市小屋で餌付けされた人間とは言えないだろうか。事実、各種データは、日本人の生殖能力、というか生殖本能の減退を如実に表している。かつて、人間は「全身で食べる」ことをしていた。五感を研ぎ澄まして獲物を仕留め、それを家まで体を使って運び、手で調理し、顎で噛んで食べた。今はどうだろう。咀嚼しやすい食べものが口に運ばれるのをただ待っているだけである。使うのは、喉だけという食事も珍しくない。栄養補給よろしく、それはまるで車のガソリン給油を彷彿させる。

かくして、ぼくたちは自らが"生きもの"であることを感覚することが難しくなっている。「生きる実感がわかない」。この言葉を何度耳にしたことだろう。多くの都市住民が、生きる屍のように「生」を持て余している。また、都市は人間が安心して暮らすために、人間がコントロールできない自然を徹底的に排除してつくられてきた。人間の思い通りにならない「死」も自然そのものだが、この「死」も目の届かないところに遠ざけ、直視しないようにしている。他の生物の「死」を前提にしてしか成り立たない自らの「生」という自然界の掟も、燃料補給の食生活の中で忘れ去れてしまった。「死」がない「生」は、「生」たりうることができない。

ぼくたちが日頃食べているものは、すべて他の生物の死骸である。食べることは生きること。人間は、他の生物の命を殺め、食べることで、自分の命をつなぐことができる。そして、分子レベルで見ると、その口に入れる他の生物の体の一部は、食べた人間の体の一部に入れ替わり、元々そこにあった体の一部は外に排出される。車に例えれば、給油したガソリンは、ボディ、エンジン、シャフト、タイヤの一部に入れ替わる。人間は、他の生物とその生物を育む環境をまるごと食べて生きているのだ。食べるという行為を通じて、環境がぼくたちの体の中を通過していく。

だから、自分の命や健康を考えることは環境を考えることであり、環境を考えることは自分の命や健康を考えること、ということになる。本来、人間と自然は切り分けられない。農家は「自分は田んぼで、田んぼは自分である」、漁師は「自分は海で、海は自分である」という感覚を持っているが、それは人間と自然はつながっていることを無意識に理解しているからである。当然、そこには自分は"生きもの"であるという感覚もある。残念だが、詰まるところ、被災地に建設している巨大防潮堤は、海という自然と向き合って生きてきた人々を生簀の中に放り込むことになるのではないだろうか。

水俣病で父親を亡くした漁師の緒方正人さんはいう。「幾十億年に渡る遥かなる生命の記憶とそのルーツさえ見失い、命の迷い子となって生命感覚を喪失している。システム・ネット社会に同化した養殖された命から天然の広大無辺のいのちへ目覚めなければならない」。一方で、緒方さんは、近代の消費文明社会はヤクザの世界より抜けるのが難しいとことも知っている。この経済社会からはみ出して生きることは、狂人になることであり、実際、緒方さんは1年あまり本当に狂った。『消滅世界』に向かう時代の流れは、不可逆的に進行している。絶望の中に希望は見いだせるのか。今、コインの表側の経済社会が綻び始め、裏側の世界と急速に接近している。表と裏が地続きになったとき、ぼくたちは意識の檻から抜け出すことができるだろうか。

詳しくは夏に出す新書にて。

東北食べる通信編集長 高橋博之